アミの決意
五十メートル走の計測が進む中、ガソンはユノにある宣告をする。そしてアミはある決意を胸に、二回目の計測へ。
その場の全員が歓声のした方を向いた。
「大丈夫か!」
ガソンの叫び声が響く。
彼の視線の先には、ゴール寸前で、もんどりうって倒れた男子生徒がいた。うずくまり、膝をかかえ、嗚咽をもらしている。ゴール直前の一番スピードがのったところで倒れたせいで、通常よりも衝撃が大きかったらしい。
近くにいた他の男子生徒たちも、パラパラと駆け寄ってきた。
「う……む……」
倒れた生徒の体の節々をさわり、ガソン先生が唸る。遠巻きで見ていた女子生徒達も、何ともいえず不安な気持ちになった。
「骨は折れていないな。脱臼や捻挫もなさそうだ。保健委員はいるか。彼を保健室まで連れていってくれ。いや、保健委員より……」
ガソンは体格の良い男子生徒を指名し、彼にケガ人をおぶらせた。
「じゃあ、保健委員は一足先に保健室へ行って、治療の準備をしてもらっておいてくれ」
保健委員の男子が校舎の方へ走り出し、ケガ人とその運搬者が後につづいた。
ざわつく生徒達にガソンが声をかける。
「よーし、計測を続けるぞぉ」
見た目は派手だが、彼のケガは大したことなさそうだ。
「ふー、驚いちゃったね。何か、もうどうなる事かと思った」
ユノのホッとした表情。
「何事も根性、根性よ。あれくらい、なんてことないわ」
「あんたの場合はね」
パイリーの調子良さに、アミがクギをさす。
「パイリーも気をつけてね」
ユノが心配そうに、パイリーを見た。
「へーき、へーき。もし倒れそうになったら、そのまま転がってでもゴールしてやるわ。むしろ、その方がタイムが上がるかもね」
パイリーのへらず口が冴える。
「もう!」
処置なしといったパイリーに、ユノとアミが苦笑した。
やがて男子の計測も終わり、女子の二回目の計測が始まろうとしていた。
「さて、二回目の計測だがな。出席番号順では計らないぞ」
ガソンの言葉に、少なからず驚く一同。
「二回目はな、一回目の記録を元に、タイムの近い者同士で走ってもらう。実力伯仲の方が、良い記録が出やすいしな」
ざわめく生徒達。
「おー、これは燃えてくるわねー。さっきはまるで勝負にならなかったけど、今度は楽しめそうだわ」
パイリーの顔は紅潮し、軽くステップをふみはじめている。
「でも、パイリーと勝負になる女子なんているのかしら」
ユノが唇に人差し指を添え、考える。
「ま、そうかも知れないけれど、一回目よりはマシな勝負になる事まちがいないわ」
二回目の計測が待ち遠しくて仕方のない様子のパイリー。
(もし、パイリーと対戦する事になったら……)
アミは心の中で考えた。
(アレを使ってみようかしら)
アミはチラリとパイリーを見る。
アミは女子の中で二番目に速いというわけではないのだが、一回目の計測では好成績を出せた。しかも、かなり余裕を持って走っている。もしかしたら、もしかする可能性も無いではない。
もちろん、運動能力が自慢のパイリーにかなわない事は、アミもよく承知している。だが、自分がどこまでパイリーに通用するのか試してみたい気持ちは常にあった。
そのためには普段のかけっこなどではなく、正式な競争でなくてはならないのだ。単に遊びのかけっこならば、パイリーは本気を出さないだろう。それでは駄目なのだ。本当に本気のパイリー相手でなくては。
(それに、この機会を逃したら、パイリーとは二度と真剣勝負できない……)
「アミ、どうかした?」
アミのいつもと違う雰囲気を、ピンと察したユノ。
「え? い、いや、何でもないわ」
慌てて否定するアミ。
「ん? 何、何、何?」
自分が原因だとは露しらず、パイリーがお調子者よろしくオドケてみせる。
「もう! 何でもないわよ、何でも」
アミは例えようもないモドカシい気持ちで、パイリーに言い返した。
二回目の計測が始まった。
一回目の記録を見ながら、ガソンは一組ずつ指名する。彼の呼び出しがある度に、皆、少なからずどよめきをあげた。いつ呼ばれるかわからない緊迫感。また、誰と走るかも大変案じられるところであった。それゆえ、名前が呼ばれる度に緊張と安堵の繰り返しが行われ、一同、いやがおうにもテンションが高まっていく。
またそれに応えるように、ガソンの人選も大変絶妙なものであった。単にタイムが似通っているだけではなく、まるでその生徒の性格までも見抜いているような、素晴らしい選択眼で組み合わせを決めていく。それゆえ結果のタイムにかかわらず、一回一回、非常に白熱したレースが展開されるのだった。
「うきょー、盛り上がるわねー」
次々と繰り広げられる名勝負に、パイリーが声を上げる。普通の生徒ですら少なからず興奮を覚えるのだ。パイリーの闘志が沸き立たぬはずがない。
女子の半分が走り終わった頃であろうか。ゴール地点でタイムを計っていたガソンが、突然スタート地点に戻ってきた。
「何々?」
予期せぬガソンの行動に、それまでレースに熱中していたパイリーは首をひねる。
「さぁ」
わけがわからず、気のない返事をするアミ。
しかしユノだけは、何かしら漠然とした不安を抱いていた。
何事かとざわめく生徒達をよそに、ガソン先生はユノの前で立ち止まる。
「ユノ、ちょっとキミの具合を見させてくれ」
彼は中腰になり、ユノの眼や肌の様子、果ては脈や間接までも丹念に調べ始めた。
「ユノ、二回目の計測は無しだ。いいね」
「え……」
ガソンの指示に、思わず言葉がもれるユノ。
「ちょっと、ガソン先生! 何でユノが走っちゃダメなんですか。一回目のユノの走り、みたでしょ?」
突然の宣告にパイリーが食ってかかった。ユノの権利が奪われるようで、何とも納得しがたい面もちである。
アミも抗議しようとするが、一瞬速く、ガソンの答えがかえってきた。
「ユノ。体調があまり良くないね」
やさしく問いかけるガソン。
「い、いえ、そんな事、ありません。大丈夫です、大丈夫です」
ユノが必死に懇願する。
「無理しちゃいけないよ。一見、普通そうに見えるけど、唇は青いし、眼も少し焦点がはっきりしていない。膝もまだ少しガクガクしているね?」
アミはガソンの言葉にハッとした。
言われてみれば確かにそうだ。普段のユノからすれば、たとえ調子が悪くても自分からはなかなか言い出さない。特に今のような状況だと尚更だろう。そんな事わかっていたのに、今まで全然気づかなかった。パイリーとの勝負を夢見るあまり、具合の良くないユノの事をすっかり見過ごしていたのだ。アミは自分を恥じた。
「でも、でも!」
必死に訴えかけるユノに、ガソンは静かに語りかける。
「ユノ、さっきの計測でキミは一生懸命に走った。本当に一生懸命にね。そしてあの時、キミはタイム以上の何かを得たんだね。ゴールした時のキミの目を見て、僕はそう思ったよ。違うかい?」
驚いたようにガソンを見つめるユノ。
「でもね。無理しちゃいけない。もし無理をしてキミに万が一の事があったら、みんなが悲しむよ。パイリーも、アミも、もちろん僕も」
ガソンはユノの肩にそっと手をおいた。
「……はい」
ユノが小さくうなずく。
無理矢理納得したわけではない。ガソンの手から伝わる温もりに、ユノは全てを理解したのだ。ユノの事をきちんとわかってくれ、その上で心配してくれているガソンの心底を。
「ちょ、ちょっとユノ! 納得しちゃ駄目だよ」
「いいの! ユノがそう言うんだから」
ガソンの方へ突き進もうとするパイリーの腕を、アミはしっかりと掴んで引き戻した。
「アミ、どういうつもり!」
今度はアミに文句を言おうとしたパイリーだったが、彼女の目を見て一瞬ひるんでしまう。
アミの目は、決して単に教師に従おうとする目ではなく、全てを理解した確信に満ちた目であった。こういう時のアミは怖い。理論と実践と努力を兼ね備えた彼女の確信は、パイリーの勢いを止めるのに十分だった。
「パイリー、いいの。先生の言う通りだわ。私、ちょっと無理してたみたい」
もう片方の腕をユノがとる。その顔には諦めの色など微塵もなく、実に穏やかなものだった。
二人の親友が、そこまでして言う事なのだ。さすがのパイリーも納得せざるを得ない。
「もう、わかったわよ。こうなったら私とアミで、ユノの分まで全力疾走よ。いいわね、アミ」
アミにふるパイリー。
「もちろん!」
パイリーやユノがビックリするほど明快な返事をするアミであった。
ガソンがゴール地点へ戻り、計測が再開される。先ほどまでと変わりなく、次々と面白い試合が繰り広げられた。歓声、応援、笑い声、皆、授業を心の底から楽しんでいるようだ。
そして、つい先ほどの誓いを実行する時が、早くもやってくる。
次の走者を指名するガソン。
「アミ、それと……」
その名を聞き、アミは驚いた。
それはパイリーとユノも同じである。互いに顔を見合わせる三人。
「アミ、わかってると思うけど、無理しないでね。私、本当に何とも思ってないから」
アミの心中を察して、ユノが心配そうに声をかける。
「わかってるわよ、大丈夫」
ユノをなだめるアミ。そして、スタートラインへと向かう前に、ちらりとパイリーを振り返る。互いの目を見て、心の中を確認しあうパイリーとアミ。
勝負の始まりとなる白線の前に立ち、アミは努めて冷静さを保とうとしていた。そんな彼女に対戦相手が不敵に話しかける。
「前から思っていたけど、アンタ、頭もいいし、運動もできる。人付き合いだって上手いのに、なんであんな乱暴者やウジウジしている子と仲良くしているのよ。全く理解できないわ」
声の主は一回目の計測でパイリーに惨敗し、先ほどユノに悪態をついた、あの女子生徒だった。
彼女の問いかけを無視するアミ。
「ちょっと! 人が話しているのに……」
その女子が言葉を発するかどうかと前後して、ゴール地点を見つめていたアミがゆっくりと口を開く。
「話しかけないで。私はパイリーほど単細胞じゃないけれど、ユノほど優しくないわ。今、あなたをヒッパタかないように、必死に我慢してるのよ」
意外な返答に、軽口をたたいた女子は暫し絶句した。しかしその言葉に加え、先ほどパイリーに負けた悔しさも一緒くたに蘇り、言いようのない不愉快さが全身をほとばしる。
(何よ、何、この女。パイリーといい、ユノといい、ほんと、ムカツク。見てらっしゃい。さっきは、みっともないほどの負けっぷりだったけど、この子レベルにだったら、そんな事はあり得ない。私の本当の実力を見せてやるわ)
憎悪に満ちた目をして、スタートに備える女子生徒。そんな彼女を尻目に、アミはある事を考えていた。
全力で走れば、この子に負ける事はないだろう。でも、さっきのパイリーみたいに、圧勝というわけにはいかない。でも、それじゃあ、ダメなのよ……。それじゃあ、ユノの仇をとった事にはならない。それじゃぁ……。
(やっぱり、アレを使うか)
アミは密かに決意した。
もしもパイリーとの勝負ができた時の為に、とっておいた手段。望んだ使い方ではないけれど、ユノの仇をとる為なら本望だ。もっとも無理はしないと言った約束には、反する事になるのだが。
静かな闘志を燃やし始めるアミ。その隣で憎しみのオーラを発する女子生徒。スタートを宣言する男子生徒の笛が、ゆっくりと彼の口元へ運ばれていった。