ユノの憂鬱
「ハクション!」
生徒の一人がクシャミをした。五時間目が体育の時は、早めにグラウンドや体育館に集合するのが通例となっている。そのため、他の時間に体育がある場合と比べ、授業開始前に、肌の露出が大きい体操着でいる時間が長いのだ。これが冬場だと、体の冷える原因ともなる。
「おー、大丈夫か? ま、確かに少し寒いな。じゃぁ、まず体を温めるのに少し走ろう。おっと、その前に準備運動だな」
ガソンは、そう指示を出した。
彼の授業は大抵この特徴ある準備運動から始まる。二人、もしくは三人ひと組になり、柔軟体操を始め、様々な予備運動を行うのだ。
例によって、パイリー、ユノ、アミは三人でこの運動を始めた。
「あぁ、やだなぁ。体を温めるって、どのくらい走るんだろう。グラウンド何周くらいかなぁ」
運動嫌いのユノが、心配そうにつぶやく。
「まぁ、三周ってとこじゃない? 大したことないわよ」
ユノの手を伸ばしながら、アミが励ました。
「そうそう。三周といわず、十周でもいいわ。今日は特別サービスで、そうしてくれないかなぁ」
アミと背中合わせになり、彼女を腰で持ち上げながら、パイリーが軽口をたたく。
「もう、冗談はやめて。カイロを体中に貼って、それで温めるっていうのはだめなのかな」
ユノの提案にアミが吹き出した。
「ユノは時々、とんでもないこと言うわね。その発想はパイリー並よ」
それは、誉め言葉かどうか微妙なところであり、ユノは苦笑いする。
「わたし並って、どういうことよ」
最後の仕上げ運動をしながら、パイリーは尋ねた。
「誰も思いつかないような、先進的な思いつきって意味よ、良く言えばね」
少しトゲのある返答をするアミ。
周りの空気を読まず、一人寒さの中でも飛び回っていたパイリーの先ほどの行動に、まだちょっとこだわっているようだ。
「みんな、準備運動は終わったかー」
生徒たちを見回しながら、出欠表に丸をつけていくガソン先生。
「それじゃあ、ランニング開始だ。アミ、いつものようにキミが先頭を走ってくれ。グラウンド三周な」
アミはこういう時、よくガソンに頼りにされる。彼女はコミュニケーション力が非常に高い。それは人をよく観察している事に他ならない。ゆえに、クラスみんなの運動能力の分布や、その日の各人の体調も、彼女はだいたい把握しているのだった。
ところでガソンは、生徒の事を"おまえ"とは呼ばない。必ず名前か"キミ"と呼ぶ。この事は生徒にも良い影響を与えていた。"おまえ"と呼ぶと、何か上から下への高圧的なイメージを伴う。
もちろん教師と生徒なのだから上下関係はある。だが、それでもガソンに"キミ"と呼ばれると、何か一段上の扱いを受けているように感じ、生徒の方も信頼されているという自覚を持てるのだった。
これがガソン以外の言ならば、必ずしも、こうはならないのかもしれない。そう考えると、これはガソンの、教師としての力量という事になるのだろう。
走り出したアミは、様々な状況を考え合わせて、ペースを作る。おかげでヘバってしまう生徒が出る事もなく、最適の状態で、皆がウォーミングアップを終える事ができた。
「あー、つかれた。アミ、ペース早いよー」
ランニングが終わり、ユノが息を弾ませながら文句を言う。
「だめだめ。ユノが疲れないペースで走ったら、ウォーミングアップにならないわ」
「アミ、もっとペース早くても良かったよ。私、全然物足りないわ」
パイリーは、とても不満そうだ。
「それも却下。あなたの気に入るペースで走ったら、ユノは即、保健室行きね。自分が"特別"だって自覚を少しは持ったら? で、他人の事も少しは考えて……」
アミの説教も聞かず、パイリーは「特別ぅ、特別ぅ」とはしゃいでいる。
「ほめてないんだけど……」
恨めしそうなユノを横目に、アミは呆れ返った。
「よーし、みんな体は温まったかー」
「はーい」「おれ、もうダメ」「今日は終わりにしよー」
いつもの如く、ざわめく生徒たち。
「終わりにしようなんて言っているのは誰だ? そんな後ろ向きな心構えは認めんぞ。という事で、今日は五十メートル走の計測をします」
「え~」「やった!」
ユノとパイリーが同時に叫ぶ。
"計測"この言葉は子供たちにとって、特別な意味を持つ。つまりこれはテストなのだ。テストでなければ、大抵は気楽に楽しめるのだが、計測=テスト、となるとそうも言っていられない。
もっとも、運動が得意な者には、テストは最良のプレッシャーだ。目を輝かせ、自分の番が来るのを今か今かと待っている。しかし運動の苦手な者にとっては、最悪の重圧となる。成績に低い評価がつくのはもちろん、テストの種目によっては、クラス全員の目に晒された上で大恥をかく事になるのだから。
ユノは頭を抱えた。
(もう、ガソン先生のバカ。 何でわざわざ"今日"計測なんてするの? 私が走るの苦手だって知ってるくせに)
確かにユノにとっては、本日最大の試練である。
「くー。燃えるー。燃えるわ!」
落ち込んでいるユノを尻目にパイリーは俄然活気づく。
元々、勝負事となると、人並み以上にやる気の出る彼女であった。しかも五十メートル走の計測となれば尚更だ。
まず、形式自体が単純であり、直情型のパイリーにとって、この種目は最も適しているといっていい。それに加えて周囲の目だ。五十メートル走の計測は二人ずつ順番に行う。順番が後ろの者はともかく、自分の出番が近い者は、前の計測対象者のギャラリーとなるのだった。
ましてや、注目のランナーともなれば、多くの生徒にその走りは注目される。パイリーは女子の中では別格で、その分、ギャラリーも多かった。
「パイリー、あんまり、ハシャギなさんな。ユノがますます落ち込んじゃうわ」
アミがパイリーの闘志に水をさす。
「え、何で? 何でユノ落ち込んでるの?」
パイリーはドンヨリとしたオーラを発する友人を見て、きょとんとする。
「たかが計測じゃない。軽い気持ちでドーンと構えていなさいよ、ドーンと」
パイリーの明るさは、ユノをいっそう暗黒の淵へと追い込んでいった。
「ま、パイリーの無神経さは、こっちへ置いといて。ユノ、あんまり落ち込んでもいい事ないわよ。もっと前向きに考えなきゃ」
「ちょっと。誰が無神経よ!」
「おだまり、パイリー」
アミが一喝する。
わけがわからず、仕方なしに沈黙するパイリー。
普段ならアミに食ってかかる所なのだが、勝負への興奮は、いつもの怒りを忘れさせていた。
「ユノ。あなたはいつも何にだって一生懸命じゃない。これだって、それでいいのよ。テンション低いまま走ったって、実力、出ないよ」
アミはユノの肩をたたいた。
「う……ん」
ユノだってそんな事はわかっている。でも嫌なのだ。もちろん大勢の前で惨めな姿を見せたくないという思いもある。でもそれ以上に、パイリーやアミとの差を感じてしまうのが苦痛だった。
パイリーは正にウサギのように軽やかな走りを見せる。タイムだって、女子の中だけではなく、男子と比べても遜色ない。アミもパイリーほどではないが、独自の走法で女子の上位につけている。それに比べて自分は……。
通常だったら、ユノのような子供はイジメの対象になりやすい。しかし現在ユノがその標的になる事はなかった。何せ、パイリーという最強の武闘派と、アミという、これまた最高の頭脳派がついているのだから。
それは当のユノが一番わかっている。でもだからこそ彼女は嫌なのだ。友達なのにどこか対等でない自分。もちろんパイリーたちがそんな事を思うはずないと心得てはいる。しかし胸の奥底で、どこか納得できない自分がいるのも、また事実なのだ。
「じゃあ、計測を始めるぞ。計るのは全部で二回。まず女子からな。出席番号順に並んでおいてくれ。二人ずつ順番に計るから」
ガソンの指示の元、女子が列をつくり始めた。
三人の中では、アミが一番最初に走り、次にパイリー、最後にユノと続く。それぞれが列に加わるため移動する。
「じゃあ、ユノ。一生懸命ね」
パイリーがユノの背中を軽くたたき、列の自分の番号あたりに並んでいく。
「無理しちゃダメだけど、勝負は時の運。結果はあんまり気にしなくていいの。でも、あきらめないでね」
そういうとアミも列へと向かった。後ろ向きに手を振っている彼女の背中は、まるでユノの心を見透かしているようにもみえた。
一人取り残されたユノ。
「ほらほら、早くして」
ガソンの声に促され、ユノも自分の位置へと急ぐ。
出席番号一番のアミが、まず先陣をきる。
「アミー! 負けるんじゃないわよー。ぶっちぎりで、ゴーゴー!」
パイリーの声援に、クスクスと笑い声がもれる。
(もー、はずかしい! あの子、なに考えてんのよ)
顔を赤らめながら、アミがスタートラインにつく。彼女と走る生徒は女子の中では中堅程度の実力だ。しかし彼女にも思惑はある。クラスの中でそれなりの地位にいるアミに勝てば、自慢とまではいかなくても、話の種くらいにはなるだろう。密かに闘志を燃やしながら、彼女もスタートラインに立った。
スタート地点にはガソンに指名された男子生徒がおり、スタートの笛を吹く。そして、ゴールラインのガソンがタイムを計る寸法だ。
「位置について―― ヨーイ……」
軽やかな笛の音とともに、二人のランナーが走り出す。
「いけいけー!」
パイリーの有り難迷惑な応援が冴える。
中間地点までは互角の戦いで、両者一歩も譲らない。しかし後半アミが抜群の延びを見せる。たえまぬ研究と努力の賜物だ。
アミ、余裕のゴール。
「やったー!」
五十メートル離れた所からの祝福を聞いてか聞かずか、アミの口元がゆるむ。自らの思い通りに走れたという満足感とともに、記録の方も、それなりに良い結果であった。
(アミ、すごいなー)
列の最後尾付近にいるユノは、何ともいえない気分だった。
友達が良い走りをしたのは嬉しい。でも自分との差をより一層認識させられるのは、あまりいい気分ではない。特にアミはパイリーのようにズバ抜けた運動能力の持ち主というわけではなかった。あくまで本人の向上心の現れなのだ。
(私も、がんばらなきゃ……)
わかってはいる。わかってはいるけれど……。
何人かが走り終わり、スーパーアスリート・パイリーの出番がやってきた。一緒に走るのは、キアルの取り巻きの一人だ。これはパイリーにとって、かなり燃えるシチュエーションとなった。なぜなら彼女を始め、キアルのファンたちは、彼の敵であるパイリーに、何かと辛くあたってきたからである。
(普段のウラミ、はらさせてもらうわよー)
パイリーは相手を横目で見ながらニタリと笑う。
併走者もその意図を見抜いたのか、挑戦的な眼差しでパイリーを睨みつけた。
二人はスタートラインぎりぎりに足を置き、戦いの合図となる笛の叫びを待つ。
そして鳴り響く笛の音。
解き放たれた獣のように凄まじいスタートダッシュを見せるパイリー。一瞬、突風が吹いたかと感じさせるような勢いである。相手の生徒も必死に食らいつこうとするが、まるで問題にならなかった。
後続の走者が、まだコースの三分の二くらいの位置に達しようとした時点で、パイリー堂々のゴール。彼女の顔に疲労のあとなど、微塵も感じられない。自分の勝利を初めから確信していたかのような、爽やかな笑みがこぼれた。
これにはガソンも目を丸くする。
「パイリー、気合い入ってるなー。キミにはハンデをつけないと。不公平って文句が出そうだよ」
ガソンの言葉に、パイリーはますます上機嫌となった。