夢の記憶
パイリーはあらためて、周りを見回した。目の前にあるのは、今はコンビニになっている酒屋。その隣には本屋がある。確か二年前に廃業してしまい、今は駐車場のはずだ。十字路の角には公衆電話もある。みんなが携帯電話を持つようになったので、三年前に撤去されはずの……。まだ携帯電話を持たせてもらっていないパイリーには、貴重な存在だったのに。
通りの向こう側には、真新しい八百屋が自慢げに建っている。店自体は昔からあるのだが、七年前に一念発起して建て替えたのだ。目につくもの皆なつかしいものばかり。ちょうどこの頃からパイリーの記憶も確かなものになっている。
「そっか……。ここは、私が三歳か四歳の頃の街なのね」
パイリーがつぶやく。
「正確には四歳だな」
当時、酒屋の主人だった男が補足した。
「? 何で四歳ってわかるのよ、おじさん」
パイリーが人の良さそうな店主を見上げる。
「だって今日は、キミがあの事を告げられた日だろう。つまり、四歳の誕生日ってわけさ」
自信ありげに、夢の住人がパイリーの頭を軽くなでる。
「四歳……。誕生日……」
パイリーは古い記憶を一生懸命に手繰りよせた。そしてハッキリと思い出したのだ。あの日の事を。
四歳の誕生日、パイリーは両親から、その事を告げられた。当時、彼女はまだ幼すぎて、何を言われているのか全くわからなかった。でもいつも優しい父が、悲しい目をしていたのをはっきりと憶えている。そして母が突然泣き出した事も。
パイリーは、いつも元気な母が余りに激しく泣きじゃくるので、理由はわからないがとても怖くなった。パニックに陥ったパイリーは、父が母を取りなしている隙に、表へ飛び出してしまっていた。無我夢中で走り続け、気がついたらここ、すなわち酒屋の前にたたずんでいたのであった。
「思い出したかい?」
酒屋の主人がパイリーを見つめる。
「えぇ、思い出したわ。今日は、私の四歳の誕生日。あの日の夕方」
パイリーは、はっきりと思い出した。家を飛び出してしまったパイリーを、両親が暗くなるまで必死に探してくれた事。一人、公園にある滑り台の陰に座り込んでいたパイリーを見つけても、決して怒らなかった事。いま考えれば、両親には申し訳ないことをしたとパイリーは思う。どれだけ自分の事を心配しただろうか。
そして、あの時の二人の言葉も行動も、今となっては、パイリーにもしっかりと理解できた。
十一歳の子供にも、ノスタルジックな感傷に浸る時はある。パイリーはあの頃の、何も考えずただ両親の愛に包まれていた、本当に幸せだった頃の自分を思い出していた。
そんな心地よい微睡みの中にいる彼女へむかい、酒屋の主人は安物のトーキングトイのごとき機械的な言葉を発っしてきた。
「思い出したかい、パイリー」
男が繰り返す
「思い出したかい、パイリー、パイリー」
「思い出したって言ってるじゃない」
パイリーは男に向かい、ちょっと不機嫌そうにこたえた。
だが、もはや壊れた玩具に成り下がった男は、何度でも繰り返す。
「オもい出シタかイ? パいリー、ぱィりー、パいり、イリぃー……。オもィダ……」
「もう、しつこいわね。一体なんなのよ。何回も、何回も、何回もっ!」
本格的に怒りだしたパイリーは、姿が崩れかかってきた男に、とびきり大きな声で叫んだ。
****************
「それは、こっちのセリフです!!」
男の顔が消えたその向こう側に、目をつり上げた若い女性の姿があらわれる。リオラーサ先生である。
「えっ?」
パイリーは夢と現実が、にわかには区別できなかった。
「私が何度も起こしているのに、しつこいとは何ですか、しつこいとは」
両手を腰に当て、身を乗り出すリオラーサ先生。その形相にパイリーは全てを理解した。
「あ、ち、違うんです、ごめんなさい。私、つい眠たくなっちゃって……」
焦点が合わない寝ぼけまなこをキョロキョロさせながら、パイリーは言い訳をする。
「窓際の席のうえ、こんなにポカポカ天気ですもの。さぞや良い寝心地だったんでしょうね、パイリー」
皆が、どっと笑う。顔を真っ赤にするパイリー。
只、リオラーサにも落ち度はあった。授業中、居眠りをする生徒というのは、だいたい決まっている。パイリーは今日のような事がなければ、普段居眠りなどする子ではない。つまりノーマークだったのだ。そしてパイリーが窓に寄り掛かって眠っている様子が、まるで起きているように見えた事も、リオラーサの目をくらます要因となっていた。
しかし自分が気がつかなかったからといって、授業中の居眠りが許されるわけではない。
「さて、パイリー。廊下に立っているのと、給食の量を半分にするのと、どっちがいい?」
リオラーサがパイリーを見下ろす。
「ちょ、ちょっと先生。今どき廊下に立たせるなんて、体罰もいいところです。それに給食半分なんて、そんなひどいの虐待です。体罰反対! 虐待反対!」
この寒い時期に、廊下へ立たされるなんて、まっぴらだ。それに給食を半分にされては、学校に来る意味の三分の一は失われてしまう。パイリーは必死に抵抗した。
「給食の方がいいよ、先生。パイリーは食い意地張ってるから」
少し離れた席で、キアルが冷やかす。再び笑いの渦。
「余計なこと言うなぁ!」
パイリーはキアルをにらみつける。
「ほらほら、静かに。ん~、給食半分っていうのは、やめておこうかしらね。五時間目は体育だし、空きっ腹っていうのも良くないわ」
リオラーサは、人差し指をアゴにあて、考え込むフリをする。彼女は給食を半分にする罰など、最初から考えてはいなかった。だが、このおてんば娘を懲らしめる為には食べ物が効果的であるという事を、彼女はとうの昔に承知していたのである。
「じゃあ、パイリー、判決ね。この時間が終わるまで廊下に立っている刑よ」
「え~」
「え~、じゃありません。さっさと……」
―― キーンコーンカーンコーン。
リオラーサが言い終わるかどうかのうちに、終業のチャイムが鳴る。
パイリーは、このグッドタイミングとなったメロディーのおかげで、めでたく恩赦にありついた。彼女は、ほっとするとともに、普段はまるで信じていない神様に感謝する。
「パイリー、運がいいなぁ」
今度はアミより先に、ユノがパイリーの元へやってきた。
「だから、いつも言っているでしょう。私には神様がついてるって」
「神様? 悪運と一緒にされちゃあ、神様も迷惑よね」
ユノの肩越しに、アミがイタズラっぽい顔をのぞかせる。
「なんとでも言って。信じるものは救われる、よ」
***************
しっかり眠ったせいか、パイリーの機嫌は上々だ。おまけに、次の時間は図工。彼女が二番目に好きな科目である。しかも今日は、粘土を使う授業が予定されていた。
パイリーは絵や紙工作よりも、この粘土を使う授業が大好きだ。何より直感的に思いを込める事が出来る。もっとも粘土細工が好きだからと言って、得意であるとは限らないのだが。
そして図工の次は、学校生活最大の楽しみである給食。五時間目は一番好きな科目の体育と、この後はもう夢のような時間割なのだ。
ユノが少し曇った表情でつぶやく。
「あ~、次、粘土かぁ。ちょっとイヤだな」
「まぁ、出来を気にせず、思いっきりやればいいのよ。図工なんてものは」
絶好調のパイリーが、ユノの肩をたたいた。
「何言っているのよ、パイリー。図工の成績はユノの方が上じゃない。特に粘土で、あなたがユノよりいい点とったの、見たことないわ」
あきれ顔のアミ。
「芸術は、得点なんか気にしちゃダメよ。ほとばしる情熱が大切なの。わかってないのね、アミ」
とどまる事を知らないパイリーの小さな口。
「はい、はい。ま、確かにパイリーの作品は、絵も粘土もゲイジュツ的よね。普通の人には理解できないし」
パイリーがアミの嫌みにヤリ返そうとした瞬間、四時間目のチャイムが鳴った。
皆、机の上を片づけて、粘土板やら、ヘラやらを、そそくさと準備し始める。次にする事がわかっているのにモタモタしていると、リオラーサ先生は容赦なく怒りの矛先を向けてくるのだった。時は金なり、光陰矢の如し。リオラーサ先生の口癖である。
教室の扉が開き、リオラーサ先生が入ってくる。そして黒板に何やら書き始めた。
"友達の顔"
チョークを持ちながら、リオラーサ先生が振り返る。
「はい。じゃあ今日は、粘土で友達の顔を作ってもらいます。みんなちゃんと用意をしてるわね」
リオラーサはグルっと生徒を見回した。
「別に二人で組む必要はありません。三人でも四人でも自由にやっていいわ。机の配置も思い通りにしてちょうだい。ただし仲間外れを出さないようにね。それから、俺の友達はザリガニだ、なんて言って、後ろの水槽にいるザリガニを作ったりもしないように。わかった?」
リオラーサ先生の視線は、キアルの方へと向かっている。
「せ、先生。何で俺の方を見るんだよ。そんな事するわけないじゃん」
キアルがあわてて否定する。
「ふーん。でもこの前の自画像を描く授業の時"本当の俺はこうなんだ"とか言って、アニメのヒーローみたいな顔を描いたのは誰だったかしら?」
そこかしこで、笑いがもれる。
「いや、あれは……っていうか、先生、あんまり昔のことを言うのは、年寄りっぽいですよ」
生意気な口をきいてみたい年頃である。
「キアル、もう一度いったら、あなたには廊下にある鏡の前で、自分の顔を作ってもらいますからね」
今度は誰も笑わない。下手をするとリオラーサ先生は、本当にそれくらいの事をやりかねない人なのだ。保護者や上司からの苦情も何のその。あくまで自らの理念を貫き通すのが、彼女の良いところであった。時々、やりすぎるのが玉に傷であるが。
「んじゃ、三人でやろうか」
アミが早速、机を移動させる。他の生徒もそれぞれパートナーを得て、粘土をこね始めているようだ。
「パイリーは、ユノを作って。で、ユノは私を作る。私はパイリーを作るわ」
こういう時の仕切役はアミと決まっている。パイリーなどは、あまりの強引さに反発する事もあるのだが、大抵はその正しさに最後は悔しい思いをしていたのだった。
そして今回の采配にも、ちゃんとした理由がある。ユノはあまり図工が得意ではない。もしユノがパイリーの顔を作ったりしたら、パイリーは文句の言い通しだろう。そうなれば気の弱いユノは、手が止まってしまうに違いない。
しかしパイリーの顔を作るのが、アミならば話は別だ。彼女の旺盛な知識欲は、単にその集積にとどまらない。ものによっては、ある程度の実践を伴っている。仕入れた知識は使ってみたくてしょうがないのだ。
アミは、美術に関する知識もそれなりにあり、時々それを試す事で小学四年生とは思えぬ実力を発揮していた。それはパイリーも認めざるを得ないところである。よって、パイリーがアミの作品の出来映えに文句を言えるはずもなかった。
またパイリーがどれだけゲイジュツ的なユノの顔を作ったとしても、心優しいユノが怒る事なんて滅多にないだろう。アミはそこまでを瞬時に計算していた。
「よーし、傑作つくるぞう。期待しててね、ユノ」
苦笑するユノ。
前の時間の居眠りで、頭がさえ渡るパイリーは、張り切って粘土をこね始めた。アミの方はといえば、持ち前の知識と技術を使い、すでにパイリーの顔を細かく分析している。こちらは本当に期待がもてそうだ。
「ユノ、遠慮しないで私の顔を作ってね。あなたは自分が思っているほど下手じゃないわ」
似なかったらどうしようと、他人の顔を作る事を躊躇しているユノに、アミが助言する。
「そうそう、思い切りが大切なのよ。こういうものは……」
そんな芸術家気取りのパイリーのうしろから、リオラーサ先生がヌゥッと顔をのぞかせた。
「思い切り良すぎて、抽象作品にならないでね」
いきなりの訪問に、パイリーは、ぎょっとする。
「先生、急に声をかけないで。手元が狂っちゃうわ」
「そう? ごめんなさいね。じゃ、期待しているわよ」
ユノとアミの手元をチラリと見たあと、リオラーサ先生は机の間を縫うように、他の生徒たちを見回りにいった。
「ところでユノ。先生の言ってたチューショー作品って何」
「えーっと。ぐにゃぐにゃした絵や彫刻の事かな……」
自信なさげにユノが答える。
「要するに、わけのわからないモノって事よ」
アミがケラケラと笑った。
「?」
パイリーは何の事だか、今一つ理解できない様子である。
思い当たる節があるという人も多いだろうが、図工の時間というのは何故だか時間がたつのが早い。最初は余裕しゃくしゃくなのに、気がつけば授業時間は、とうに半分を過ぎている。そして後はチャイムの鳴る締め切りに向かって、壮絶な追い込みが始まるのが常である。
「ちょっと、パイリー。あなたさっきから、作っては壊し、作っては壊し、しているみたいだけど、あと二十分もないわよ」
八割方、パイリーの顔を完成させているアミが、注意を促した。
「わかってるわよ、うるさいわね。安易な妥協は禁物なのよ、ゲイジュツには」
強気な発言とは裏腹に、パイリーの顔には、ハッキリと焦りの色がにじんでいる。
つづく