楽しい授業
朝のホームルームが終わり、皆、理科室へと向かう。今日は実験の日だ。ユノと渡り廊下を歩きながらパイリーは思う。
(あぁ、何で朝っぱらから、薬品をあぁだこうだしなくちゃならないのよ。リトマス試験紙が青くなろうが赤くなろうが、私の知ったことじゃないわ)
パイリーは理科や算数が苦手であった。どうして既に答がわかっている事を、わざわざやらなくてはいけないのだろう。将来、学者になりたい人はちゃんと勉強しなきゃいけないとは思うけど、自分にはそんな気ないもの。彼女はいつもそう考えながら授業を受けていた。それよりも、自由な発想が広がりやすい国語や図工の方がパイリーは好きなのである。
渡り廊下を過ぎるころ、校庭の方で歓声が聞こえた。六年生がソフトボールの試合をしているのだ。体育のガソン先生が、早めに授業を始めたらしい。
「いいなぁ。わたしもやりたいなぁ」
思わずパイリーがもらす。
「私たちも、五時間目には体育があるじゃない。それまで我慢しなさいよ」
後ろからアミがパイリーの肩をたたいた。
「もう。一日中、体育っていう日があればいいのに」
パイリーの言葉にユノが抗議する。
「冗談じゃないわよ。そんな日があったら、わたし倒れちゃうわ。むしろ体育の時間が全然ない月がほしいくらいよ」
文学少女のユノは、ご多分に漏れず体力には余り自信がない。運動会やマラソン大会のあとは、一週間くらい体のどっかこっかが痛いのだ。
三人が理科室に入ると、ちょうど始業のチャイムが鳴った。すでに黒板には実験の手順が書かれている。その前に立ち、生徒がそろっているかを確かめるリオラーサ先生。
「では、授業を始めます。この前の理科の時間に予告をしておいたとおり、今日は実験をやります。みんな渡しておいたプリントはきちんと予習してきたわね。準備が出来た班から……」
先生の説明を上の空で聞いているパイリー。
「どうせ教科書に書いてある通りになるんでしょう。それをわざわざやってみるなんて、意味わかんない」
「それが小学生の本分ってもんよ」
プリント片手に、同じ班のアミがつぶやいた。
もし同じ班にユノがいたら、全部彼女に任せて、自分は後でノートを写させてもらえるのに、とパイリーは思った。実際、前の学期まではユノと同じ班だったので、パイリーは相当に楽が出来たのだ。しかし班替えが行われて以来、その極楽生活にも終止符が打たれた。
「ほらほら、グチャグチャ言ってないで、さっさと手伝う!」
アミは早速、試験管やら、フラスコやらの準備を始めている。
「私はユノみたいに、ノートの丸写しなんてさせないわよ」
彼女はパイリーがズルをしていたのをお見通しのようだ。仕方なくプリントを見ながら実験の準備を始めるパイリー。ユノと同じ班でないのは痛手だが、不幸中の幸いというのだろう。この班にはキアルやそのファン連中はいない。
班分けは先生が独断で決定する。リオラーサはキアルとパイリーのトラブルを恐れたようだ。もっともパイリーの不正は、とっくに見破っていたらしく、ユノとは別々の班にしたのだが。
ガチャン!
どこかでガラスの割れる音がした。皆がその方向へ視線を向ける。あやまってフラスコを壊してしまったのは、どうやらキアルの班らしい。当事者はキアル本人ではないものの、トラブルを起こしたのが彼の班であるというだけで、パイリーはちょっぴり心が躍った。
(私、イヤな子かな)
パイリーは咄嗟に思った。いくら仲が悪いとはいえ、人の不幸を喜んではいけないと、常々、母や先生に言われている。だが、この胸の高鳴りはどうしようもない。
「キアルの班か。パイリー、ざまぁみろとか思ってないわよね」
突然、アミが耳元でささやく。
「え、思ってないわよ。思っているわけないじゃない」
心の中を見透かされたようで、パイリーはドギマギした。だがこの出来事は、パイリーのやる気のなさを改善するのには役立った。高まった心を実験の遂行に使い、彼女もまた、そつなく作業をこなしていく。
パイリーにとって、何の興味も楽しみもない実験であったが、憐れなウッカリ者のおかげでどうにか無事終了し、レポートも一応は見られるものとなった。
教室への帰り道、ユノが話し出す。
「さっき、キアルの班の子がフラスコ割っちゃったでしょう。私、隣の班だったから、良く見てたんだけど、キアル、ちょっとカッコ良かったよ」
「え?何が」
ユノの意外な報告にとまどうパイリー。
「普通だったら嫌な顔をしたり、文句を言ったりするでしょう、落とした子に。でもすぐに一緒になって、片づけてたわよ。しかも、その子が泣き出しそうになっちゃってるのを、大丈夫、大丈夫って一生懸命はげましてたの」
「へぇー。いいところあるのね、キアルって。パイリー、ちょっと分が悪いわね」
アミが横目でパイリーの方をチラリと見る。
その通りだ。自分はさっき、確かにいい気味だと思った。いけない事だとは知りながら、心がウキウキするのを止められなかった。それに引き替え、キアルは……。でもアイツ、そんなに心が広いなら何でいつも私につっかかってくるのよ。だからこっちもつい意地になっちゃうんじゃない。パイリーは後悔と不思議さがゴチャ混ぜになるのを感じていた。
「ねぇ、ねぇ。分が悪いって何?」
ユノが、割って入る。
「言わぬが花、聞かぬが花」
アミが、ちょっと嫌みっぽく微笑んだ。
「何よ、秘密ってわけ」
ユノの問いかけをかわすように、アミがつづける。
「パイリー、この場合の"はな"は、顔についている鼻じゃなくて、植物の花だからね。"言うのは"口で、"聞くのは"耳でしょう、なんてボケは無しにしてよね」
「わかってるわよ、それくらい」
パイリーは、口を尖らせ怒ってみせる。
二人の会話から察しをつけたユノ。もうそれ以上は何も聞かなかった。
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二時間目は社会。今日はTVでもよく扱われる歴史上の戦いがテーマだった。パイリーもドラマやマンガでよく知っており、特に中心人物となる若い武将のファンでもある。もっとも、いつか見たTVドラマの中で、好きな俳優が、この人物を演じていたという事もあるのが。
メディアでよく見る話を授業で聞くのは面白い。それはドラマなどでは決して扱われない別の史実を知る事が出来るからだ。特にリオラーサ先生は、そういう陰の部分を好んで取り上げた。彼女いわく"同じ史実でも見方によって印象は大きく変わる"という事を生徒に知らせたいのだそうだ。
今日とりあげる英雄的武将も、リオラーサ先生の手にかかれば姑息な領主に変じてしまう。
「ふ~ん、そうなのかぁ」
パイリーは先生の話に感心しながらも、ある異変に気がついた。普段ならこういう話を聞くと、心の奥底から沸き上がってくる熱いもの、好奇心というのか、何かを見つけた興奮というのか、とにかくそういうものを感じずにはいられない。しかし今日は、それがいささか少ない気がするのだ。自分でも不思議に思うパイリー。だが、その理由はすぐにわかった。
ふぁ~あ~。
パイリーは、一つ大きなあくびをした。
そう、眠いのだ。おかげで折角の好奇にみちた話にも、いまひとつ興味を抱けない。
「やば……」
無防備にアングリと口を開いてしまったのを、誰かに見られてはいないか気にしながら、パイリーは思う。
(早起きのせいだ。あぁ、やっぱり慣れないことはするもんじゃないわ)
毎朝、遅刻ギリギリの時間に起きている彼女にとって、今日は異常なほどの早起きだったのだ。そのツケがここにきて、一気に噴出した形となった。
(せっかくの面白い話なのに)
パイリーは、眠気と戦った。数ある授業の中でも今日ほど関心を持てるものは珍しい。その一念が、かろうじてパイリーを睡魔の淵より引きはがしていた。そして終業のチャイム。パイリーは迷わず、デスクに顔を突っ伏した。
「何、パイリー。もう昼寝? まだ二時間目が終わったばかりよ」
三つ後ろの席にいたアミが声をかけてくる。
せっかくの休み時間なのだ。貴重な睡眠の機会を奪わないでよ、と言わんばかりにパイリーはアミを恨めしそうに見上げる。
「ごめん、ごめん。でも休み時間なんてあっという間に終わっちゃうわよ。中途半端に寝ると、かえって、つらいんじゃないの」
物知りのアミが言うのであれば、そうなのかも知れない。実際、休み時間は既に半分終わっている。眠い目をこすりながら、パイリーはシャンとしようと体を起こした。
それを見計らったように、ユノが話に加わる。
「今の授業、面白かったわよね。あの武将の真の顔っていうか、別の一面っていうか……。でも、パイリーにはショックだったんじゃない。結構好きだったでしょう、あの武将」
「うん、まぁね」
二、三分眠っただけのパイリーの頭は、まだボゥッとし続けている。ユノの話も、はっきりとは認識していないようだった。
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しばらくすると、三時間目の開始を告げるチャイムがなった。その響きが終わるか終わらないかの内に、リオラーサ先生が教室へ入ってくる。ここからパイリー本日最大の試練が始まった。三時間目は彼女がもっとも苦手とする算数の授業なのだ。普段、眠気の"ね"の字すらない時でさえ、パイリーは、まぶたが重くなっていくのを激しく感じる。今日はそれにもまして、早起きの後遺症が頭をもたげているのだ。
更に都合が悪い事に、今日は久しぶりの快晴である。外はかなり寒いものの、教室の中はけっこう暖かい。特に、パイリーの席は窓側という事もあり、柔らかな日差しが彼女を眠りの世界へ、いざなおうとしている。そして難しい公式を次から次へと説明する先生は、さながら眠りの魔女。その声はパイリーを夢の世界へ旅立たせる呪文のようだった。
(眠らないわよ、眠るもんですか)
第二ラウンドを迎えたパイリーと睡魔の戦いは、壮絶を極めた。
もしもその様を見る事が出来たなら、歴史上のどんな決闘よりも迫力があっただろう。しかし現実には、うつろな目のパイリーが、頭を多少フラフラさせているに過ぎない。彼女の孤独な戦いが続く。
だが授業も半ばに差し掛かった頃、パイリーはついに睡魔の軍門に下った。彼女を責める事なかれ。むしろこれだけ不利な状況で、よく持ちこたえたと誉めてやってほしい。
(あれ、ここは何処かなぁ……)
パイリーは辺りを見回しながらつぶやく。見慣れた場所のようにも感じるのだが、はっきりとは思い出せない。
「商店街のようだけど、何かおかしいわ」
「よう、パイリー」
パイリーの後ろから野太い声がした。聞き覚えのある声、コンビニ店主の声だ。振り返るパイリー。しかしそこにいたのは三十代半ばの見知らぬ男。
「おじさん……誰?」
予想が外れ、パイリーは戸惑った。
「何いってんだよ。俺だよ、俺。酒屋の……」
男は慌ててそう言った。
パイリーは少し考え込んだが、すぐに、ある閃きを得た。
「そうか、わかったわ!」
男はやはり、パイリーが朝出会ったコンビニの主人であった。ただそれは、コンビニがまだ酒屋だった頃の主人。スッキリと痩せていて、髪の毛もフサフサしていた時分の姿だった。
「おじさん、何でそんなに若返っちゃてるの」
パイリーが不思議そうに彼を見上げると、その男は言った。
「若返ったのは、パイリー、おまえも一緒じゃないか」
男は、すぐ横にある自分の店にはめ込まれたガラス戸を指さした。
「あれ? 私?」
そこには小さい頃のパイリーがたたずんでいる。
「どうして。私、小学四年生のはずなのに。これじゃぁ、いいとこ三つか四つくらいじゃない」
パイリーはガラス戸から、自分の体に視線を移し、両手で体の大きさを確かめた。そして思い出したのだ。ここは、自分がすごく小さい頃の商店街だという事を。