早起き
元気な小学四年生の女の子、パイリー。彼女はその朝すこし早起きをした。顔を洗い着替えを済ませると、台所から卵焼きの香ばしい香りが漂ってくる。
「ほら、早く食べちゃいなさい」
母が、焼きたてのトーストをパイリーの前に差し出す。
「よぉ、おはよう。まだちょっと眠いな……」
寝癖のついた髪をいじりながら、父がテーブルにつく。
「パパ、あんまりだらしないと、会社の女の人に嫌われるわよ」
「いいんだよ。ママにさえ好かれていれば」
母は父のために作った特製コンソメスープを出しながら、かすかに微笑む。
「ほら、パイリー。さっさと食べて学校へ行ってちょうだい。今日は朝から学芸会のお稽古があるんでしょう」
そう、パイリーが今日いつもより早起きしたのは、学芸会でやる劇の練習があるからだ。ご多分に漏れず、パイリーもお姫様役を望んだが、投票の結果みごと落選。まぁ、何票入ったのかは、彼女の名誉のために敢えて言わないでおく事にする。
「侍女の役だっけ」
あくび混じりに父がたずねる。
「うん、お姫様役はカリーに譲ってやったわ。私が主役をすると目立ちすぎちゃうから」
確かにクラスの皆がパイリーに票を入れなかったのは、彼女を主役のお姫様にしたが最後、常識はずれのパワフルな劇になってしまう事うけあいだからだ。そうなればもう学校中の噂になり、パイリーと同じくクラスというだけで、からかいとも同情ともとれる言葉をしばらくはかけ続けられる事になる。
「ほらほら、食べながら大きな声を出さないの。あ、もう、パンくずをそこら中に散らかして……」
「だって、ママ……」
父に助けを求める視線を送るも、妻に逆らう事の愚かしさを知っている彼は、自分の食事に没頭するフリをする。
「もう、パパはママに弱いんだから」
「ん、ん? そんな事はないぞ。パパの会社では、我が家は亭主関白で通ってるからな」
妻の方をチラリと見ながら父がこたえる。
「ハイハイ、そこまで。パイリー、早く学校へ行かなくていいの? そのためにわざわざ早起きしたんでしょう」
さっさと食事の後かたづけをしたいのか、母がせかす。
「ハーイ、じゃあ行ってきまーす。あとは夫婦みずいらずしてね」
父がスープを吹き出しかける。
「コ、コラ。どこでそんな言い方を覚えたんだ」
「そんなの誰でも知ってるわ、パパ。今はパパが子供の頃に比べて、ずぅーっとススンでるんだからね」
パイリーはランドセルを背負いながら玄関へと向かう。
「忘れものはない? ハンカチはちゃんと持った?」
娘の背を目で追いながら問いかける母。
「大丈夫、大丈夫。モンダイありませんっ」
おどけた調子でこたえながら、パイリーは元気に出ていった。
パイリーがいなくなった後、しばしの静寂がおとずれる。パイリーが食べたあとの食器を片づける母。その顔はパイリーとの会話の時とはうってかわって、まるで曇天のような、いつ雨が降り出してもおかしくないものだった。
「パイリー……」
手を顔にあて涙ぐむ母。
「……泣くな。約束したじゃないか」
冷めかけたトーストを手に取りながら、父は押し殺すようにつぶやく。食器を洗う音だけが、ダイニングルームを支配した。
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久しぶりの早い時間。
「ん~、やっぱり早起きは気持ちがいいわ」
早朝の清々しさを満喫するパイリー。もっとも母親からは"早起きすると気持ちがいいわよ"と常々いわれてはいるのだが……。夢心地で過ごす朝の貴重な五分間。その楽しみを手放すなど、パイリーには考えられない事だった。
いつもの通学路を新鮮な気持ちで歩きだす。道路脇には花畑、その隣にある共同の野菜園。朝の光に全てのものが輝いて見える。
「おっと、あぶない」
補修工事を待つ道路のヒビ割れがパイリーの足下に迫る。それを大げさにまたぎ、三つ目の角を左に曲がる。そこから四件目の青い壁が珍しい家。玄関先には番犬というには頼りない小さな犬がチョコンと座っていた。
「おはようっ、ポッチーナ」
犬の名前が何であるのかパイリーは知らない。だが彼女はいつもそう声をかけていた。普段は遅刻気味の時間にここを通るので、犬をチラリと見るだけなのだが、今日は時間に余裕がある。パイリーは門扉をはさんで犬と対峙した。不思議そうに彼女を見上げる小さな友人。
「お前、よく見ると結構りりしい顔つきをしてるわね」
もう何年も前からこの犬の存在を知ってはいるのだが、まじまじと顔を見るのは初めてだ。
「あぁっと、こんな所でのんびりなんてしてられないわ。何のために早起きしたんだか、わからなくなっちゃう」
パイリーは慌ててその場を離れようとした。しかしハッと思い直して犬の方を振り返る。
「そういえば、お前は私が帰る時間には、いつも散歩に出かけているのよね。下校する時、お前を見た事がないもの」
パイリーはポッチーナの前に戻り、キョトンとしている彼にこう言った。
「また明日ね」
そこからしばらく歩くと大通りに出た。自分では早起きしたつもりのパイリーだが、通りには既に多くの人たちが、駅へと続く道を急いでいる。学校へ向かおうとしたパイリーを呼びとめる、少し野太いが優しい声。
「やぁ、パイリー。今日は早いね。何かあるのかい」
声の主は、十字路の角にあるコンビニの店主。この四十過ぎの人なつっこい感じがする男、酒屋だった頃からパイリーとは顔なじみだ。
「えぇ、そうなの。今日は朝から劇の稽古よ」
何故だかわからないけれど、そう告げるのが誇らしい。もしパイリーが侍女役ではなくお姫様役であったなら、もっと得意満面の顔で報告しただろう。
「へぇー。パイリーは何の役だい。まさかお姫様役?」
「まさかってのは何? おじさんは私がお姫様には向かないっていうの」
少し口を尖らしてパイリーがこたえる。
「いやいや、そんなことはないよ。ごめん、ごめん。で、実際はどうなのさ」
「侍女よ侍女。でも飛びきり美人の侍女役よ。お姫様なんか目じゃないくらいにね」
美人の侍女などという設定はないのだが、パイリーは自慢げに言った。
「あぁ、もう遅くなっちゃう。じゃぁ、おじさん、また明日ね」
パイリーは下校時にも、この店の前を通る。だから今日もう一度彼に会うかもしれないのだが、あえて彼女はそう言った。
「あぁ、また明日」
店主が応える。そして駆けだしていくパイリーを悲しそうな目で見送った。
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早朝の学校。いつもパイリーが滑り込んで来る頃には、既に校庭の人影はまばらになっている。皆、教室へ入り、先生が来るのを待っているからだ。もっとも中にはパイリーの遅刻仲間とでもいうのか、校舎の玄関へと一目散に走って行く生徒も数人はいる。
それぞれ何処のクラスかくらいは知っていても、名前までは知る由もない。彼らは一度として声を掛け合った事などないのだから。しかし彼らは妙な連帯感で結ばれている。日中、廊下などですれちがう時は、言葉を交わすわけではないのだけれど、心の中では"おうっ"と挨拶をしているのだった。
「そっか、今日は私が早いんで、あの子たちはまだなのね」
校門を通りすぎ、校舎へと向かうパイリーはつぶやいた。今日はパイリーだけが、遅刻生徒の汚名を返上したのだった。でも何か具合が悪い。自分だけが仲間を抜けたような、もっと言えば裏切ったような……。
(あの子たち、どう思うかな。いつもの時間に私がいないのを)
どうしょうもない事だし、決してパイリーが悪いわけではない。むしろ早く登校したのだから、誉められてもいいくらいだ。でもパイリーは少し後悔した。
(やっぱり挨拶したかったな)
ちょっぴり寂しい気持ちで玄関をくぐるパイリー。その時、背後から憎たらしげな声で彼女を呼び止める者がいた。
「今日は、遅刻しなかったみたいだな。パイリー」
振り向くと同じクラスのやんちゃ坊主キアルだ。
あぁ、せっかくの気持ちのいい朝も台無しだ、とパイリーは思った。このキアルとパイリーは学年でも有名な犬猿の仲。事あるごとに彼らの教室ではもちろん、廊下や階段でもおかまいなしに悪口の応酬が始まる。
「うるさいわね。そもそもいつもだって、遅刻してないわよ」
確かに先生が教室へ入ってくる前に着席していれば遅刻にはならない。しかしパイリーの場合、それは神業に近い、ギリギリのタイミングで達成されるのである。以前には完全に遅刻なのだが、たまたま先生の乗ったバスが遅れてしまい、教室に入ってくる時刻がずれたという事もあった。
そんな時パイリーは
「私には神様がついている」
などと根拠のない自信を持つのである。もっと他に神様の使いどころはあるだろうに。
パイリーとキアルに悪口戦争が勃発するかと思われたその時、下駄箱脇の廊下を担任のリオラーサが通りかかる。
「あら、二人とも来ていたの。だけど、みんなもう教室に集まって準備しているわよ」
あぁ、なんていうこと。早起きをしたつもりのパイリーであったが、結局はまた後れをとってしまったのだ。
(こんな事なら、もっと早く家を出るんだった。そうすればキアルのバカとも出くわさないで済んだのに)
後悔するも、あとの祭り。キアルとは一時休戦し、急ぎ二階の教室へと向かう。
「へっ、遅刻女と一緒にされちゃぁ、たまんないぜ」
キアルがパイリーの横を駆け抜ける。少しでも彼女より早く、教室へとたどり着きたいらしい。
「あ、待て! 私だって」
あわててキアルを追いかけるパイリー。
「こら! 廊下は、走らない!」
後ろからリオラーサ先生の甲高い叫び声が聞こえる。
つづく