第5話 テレパシーだよ?
嵐が本格的に吹き始めたのは、日が沈んでからだった。
雨待ち亭の窓が何度も軋み、板を打ちつけた外壁を風が叩く。そのたび、店の中の灯りが揺れた。けれど、不思議と人の動きは昼より整っていた。
入口の脇には赤札の者。壁際には青札。付き添いの白札は帳場そばで待機。ジュエルの帳面には番号と症状が並び、クロエは呼ばれなくても次に足りなくなる物を持ってくる。
混乱は消えないが、混乱の向きが揃っている。そうなると、人は少しだけ落ち着ける。
「次、赤の四番」
アルハシムが声を出すと、サルマンがすぐに大柄な船員を支えた。船員は吐き気で顔色が悪いくせに、妙に強がっている。
――まだ動ける。迷惑はかけられねえ。船を捨てたと思われる。
断片が耳の奥をかすめた。
アルハシムは肩を貸しながら言う。
「動けるふりは、あとでしてください。今ここで倒れると、二人分の手が取られます」
船員がぎょっとする。
「なんでそれを」
「顔に書いてある」
「俺の顔、そんなにしゃべるか?」
「今夜はよくしゃべります」
横でクロエが、空いた桶を受け取りながらほんの少し口元を緩めた。
その頃、帳場の前では若い父親が赤子を抱えて立ち尽くしていた。順番札を握る指が白い。子どもは熱で頬を赤くし、呼吸は速い。父親は何度もエスメラルダの方を見て、しかし声をかけられずにいる。
アルハシムは彼の隣に椅子を置いて腰を下ろした。
――うつしたらどうする。抱いたまま離したくない。でも、渡さなきゃ。熱い。泣かないのが怖い。
「その子、今日いつから熱が上がりました」
父親は跳ねるように顔を向けた。
「ゆ、夕方からです。いや、その前から少し熱くて……でも店に迷惑をかけるかと」
「ここはもう、迷惑を気にする段階を過ぎました」
アルハシムは赤札を一枚取り、父親の腕へ結んだ。
「泣かないのが怖いんでしょう」
男の目が揺れた。
「どうして、わかるんです」
「抱き方で」
それも半分は本当だ。離すまいと力が入りすぎている腕は、たいてい同じ形になる。
エスメラルダがその様子に気づき、すぐに卓を一つ空けた。
「こっちへ」
父親が赤子を渡す瞬間、指先が震えた。エスメラルダは受け取る手をやわらかくし、まず父親の肩へ触れた。
「大丈夫。見ます」
短い一言で、男はようやく息を吐いた。
奥の卓では、年配の店主が真っ青な顔で立っていた。自分は平気だと言い張るが、額には脂汗。手元の皿を落としそうになり、クロエが無言で受け取る。
――客を追い返したくない。店を閉めたくない。けど、もう豆が足りない。水も足りない。怖い。
アルハシムは厨房へ回り込み、棚を開けた。確かに、豆袋は底が見えている。だが今必要なのは、珈琲ではない。
「店主さん、今日の客に出すのは湯と薄い塩水に変えましょう」
「珈琲屋でそれをやれってのかい」
「今夜は珈琲屋より、生き延びる場所です」
店主は情けない顔をしたが、反論はしなかった。代わりに、戸棚の奥から大きな塩壺を出してくる。
「使うなら持っていきな」
「助かります」
ジュエルが帳面から顔を上げた。
「ずいぶん勝手に店の運営まで変えるのね」
「あとで監査してください」
「山ほど指摘事項が出るわよ」
「生きていれば受け取れます」
そう言うと、彼女は一瞬だけ視線を逸らした。怒ったのではない。言い返せないときの顔だった。
夜半過ぎ、入口が激しく叩かれた。
サルマンが戸を開けると、二人の漁師が、肩を貸し合うようにして若者を運び込んできた。濡れた網に足を取られ、岸壁に頭を打ったらしい。若者は意識が朦朧とし、唇の端から血が流れている。
「卓を空けて!」
エスメラルダが叫ぶ。
アルハシムはすでに周囲を見ていた。青札の船員を長椅子へ移し、白札の付き添いを一歩下げ、処置台の脇に熱湯と布と灯りを寄せる。
「クロエ、灯りを右へ。影が頭に落ちる。ジュエル、その帳面どかして。サルマン、入口を閉めたら左手を押さえて」
全員が一斉に動いた。
頭の怪我は厄介だ。前の世界でも、この世界でも、それは変わらない。エスメラルダが傷口を確かめ、血を拭い、瞳の反応を見る。アルハシムは若者の隣に片膝をついた。
――眠るな。船を、置いてくるな。親父に怒鳴られる。寒い。
「寝るな」
アルハシムは頬を軽く叩いた。
「船は逃げない。親父も、今は怒鳴るよりお前を見てる」
若者の目がわずかに開く。
「……なんで、わかる」
「そういう顔をしてるからです」
横でサルマンが鼻を鳴らした。
「さっきから、お前は顔を読みすぎだ」
「顔だけじゃないですよ」
「じゃあ何だ」
エスメラルダまで手を止めずに尋ねてきた。
アルハシムは少しだけ肩をすくめる。
「テレパシーだよ?」
一拍置いて、厨房の奥で店主がぶふっと吹いた。ジュエルは呆れたように目を細め、クロエは皿を拭く手を止めないまま、ほんのわずかに視線を上げた。エスメラルダだけは真顔のままだったが、その真顔がかえって可笑しかったのか、サルマンまで低く笑う。
張りつめ切っていた空気に、小さな逃げ道ができた。
若者の傷は深かったが、頭蓋までは割れていなかった。縫合と圧迫で峠を越え、呼吸も安定する。漁師たちがその場にへたり込み、何度も頭を下げた。
「礼は明日」
エスメラルダがぶっきらぼうに言う。
「今日は寝かせて」
明け方近く、風がようやく少しだけ弱まった。
雨待ち亭の床にはまだ濡れた足跡が残り、空になった桶が壁際へ並んでいる。疲れ果てた患者たちは、長椅子や床の上で浅く眠っていた。クロエは窓の板を確かめ、店主は厨房で背を丸めて座っている。ジュエルは帳面へ最後の番号を書きつけたまま、ペンを持つ手を止めていた。
エスメラルダが洗面桶で手をすすぎ、アルハシムの方を見た。
「あなた、本当に帳場だったの?」
「帳場でした」
「帳場の人間は普通、会計札を患者識別に使わないし、通路の詰まり方を一目で見ない」
「普通じゃなかったんでしょう」
「その自覚はあるのね」
彼女はそう言ってから、少しだけ疲れた顔で椅子へ腰を下ろした。
「助かった人が多かったのは、事実よ」
正面から礼を言う人ではないらしい。だが十分だった。
アルハシムは入口の方を見た。夜の終わりの灰色が、板の隙間から細く差し込んでいる。
王都を追い出されてから、初めて椅子へ腰を下ろした気がした。
その隣で、クロエが冷めた湯の入ったカップを置く。
「珈琲はない」
「十分です」
「返してもらうもの、まだあるから」
会計札のことだろう。アルハシムは首からぶら下げた残りを見せた。
「ちゃんと返します。番号以上の価値をつけて」
クロエは答えず、窓の外を見た。
嵐の朝はまだ重たい。
けれど、雨待ち亭の中には、昨夜とは違う静けさが生まれていた。
追い出されたばかりのはずなのに、アルハシムはその静けさの中で、ほんの少しだけ、次の椅子の置き場を考えていた。




