第4話 嵐の前の喫茶店
雨待ち亭の中は、外から見たより広かった。
窓際に丸卓が六つ、壁際に長椅子が二つ。奥には帳場と厨房、そのさらに向こうに小さな倉庫へ続くらしい戸口がある。普段なら魚市場帰りの客や船乗りで賑わうのだろうが、この時は椅子がいくつも倒れ、床には海水を含んだ泥が広がっていた。
入口近くの床に、ずぶ濡れの男が一人、横倒しになっている。唇の端に泡をつけ、手足が細かく震えていた。周囲には同じように顔色の悪い男が三人、壁にもたれて座り込み、吐き気を堪えるように口元を押さえている。
「港の船員です!」
誰かが叫んだ。
声の主は、白い袖を肘までまくり上げた女だった。濃い栗色の髪をひとつに束ね、濡れた前髪が頬へ貼りついている。彼女は片膝をついたまま倒れた男の脈を測り、次の瞬間には入口へ鋭く振り向いた。
「そこのあなた、立っているなら桶を持ってきて。吐いたものを流す。あと、乾いた布があるなら全部」
挨拶より先に指示だった。
アルハシムは頷き、周囲を見回す。厨房の脇に木桶が二つ。壁の棚にはテーブル用の布巾。カウンター下にはまだ使っていない麻布の束がある。
「これで足りますか」
「今はそれで」
女は返事だけして、もう別の男の瞼を持ち上げていた。
店の中央では、肩幅の広い男が倒れた椅子を片づけながら怒鳴っていた。
「吐くなら床じゃなく桶へ! 歩けるやつは壁際に寄れ! 動けねえなら言え!」
その声で二人ほどがよろよろと場所を移る。乱暴に見えて、必要な方向へ押している声だ。
さらに帳場の内側には、黒に近い灰色の髪を短く切った娘が立っていた。年は二十前後だろうか。睫毛の長い目で店内を一巡し、壊れたカップを足元から素早く拾い集めている。誰かが「クロエ」と呼んだので、その名だけはすぐに覚えた。
「熱湯」
娘が短く言う。
「今!」
厨房の方で年配の店主が慌てて返事をした。
アルハシムは床にしゃがみ込み、痙攣する船員の首元へ手を入れた。皮膚は熱いのに、指先は冷たい。潮と酒と、鼻の奥が痺れるような妙な匂いがする。
魔力酔いか。
前の世界には無かった症状だが、中央治療院にも似た患者は運ばれてきた。嵐の前後、海や鉱山で高濃度の魔力へ晒されると、吐き気、震え、錯乱を起こす。重ければ呼吸も乱れる。
「寝かせる場所を分けた方がいい」
アルハシムは女へ声をかけた。
「症状が強い者は入口から離して。出入りの風で冷える。歩ける者は窓際じゃなく壁側へ。吐瀉物の処理線が交差する」
女が怪訝そうに顔を上げる。
「あなた、治療師?」
「元帳場です」
「その答えで、どうして今の指示が出るの」
「説明はあとで。今、倒れる順番を変えましょう」
女の眉がぴくりと動いた。機嫌を損ねたのではなく、値踏みしている顔だった。次の瞬間、彼女は短く顎を引く。
「……壁側を空けて。入口から三卓目まで診る。私はエスメラルダ」
名乗りながら、彼女は治療道具の包みをほどいた。なるほど、ただ者ではない。手つきに迷いがなかった。
「アルハシムです」
「じゃあアルハシム、あの大きい人へ言って。暴れる患者が出たら後ろの倉庫へ移す。ここで全員倒れたら踏まれる」
大きい人、というのはさっき椅子を起こしていた男だろう。アルハシムが近づくと、男は片眉だけを上げた。
「今度は何だ」
「暴れる人が出たら倉庫へ。あと入口を半分塞ぎたい。担ぎ込む人と出る人がぶつかる」
「見ず知らずの顔が、よくまあそんな口をきく」
「外から来たばかりなので、遠慮する余裕がありません」
男は一瞬だけ口の端を持ち上げた。
「面白い。サルマンだ」
名乗るなり、彼は入口そばの卓を片手で持ち上げ、壁際へ寄せた。腕力だけでなく、周囲の動かし方を知っている。怒鳴り声がうるさいのに、誰も逆らわない理由がそれでわかった。
アルハシムはすぐに店内を見取り図のように頭へ入れた。
入口右側を重症、左側を待機。窓際の丸卓は食器を下げて処置台代わりに。会計札は名前の代わりの識別札になる。厨房前は熱湯と布の受け渡し。倉庫前を吐瀉物処理。通路の交差を一つ減らせば、転倒も怒鳴り合いも減る。
「クロエさん」
帳場の娘が顔だけ向ける。
「会計札、全部借りられますか。数字が振ってあるやつ」
「返してもらえるなら」
「たぶん、番号以上の価値をつけて返します」
娘は無言で札束を放った。受け止める。
「赤い札は歩けない人。青は吐き気が強い人。白は付き添い。首から下げてもらえれば、呼ぶ手間が減ります」
「紙に名前を書くより早いね」
クロエは淡々と言い、すぐ紐を持ってきた。顔色ひとつ変えないのに、必要な物は先に出てくる。
その間にも、外では嵐の気配が濃くなっていた。扉が開くたび、潮を含んだ風が店内へ吹き込む。新たな怪我人が二人運ばれてきた。一人は荷崩れで肩を打ち、もう一人は足を滑らせたのか脛を切っている。
「怪我人はこっち!」
エスメラルダが声を張る。
アルハシムは怪我人の顔を見てから、壁際の長椅子へ手を向けた。
「切り傷の人は左。肩の人は右。左は縫合、右は固定を先に」
「どうして分ける」
サルマンが問う。
「縫う人は動けなくなる。固定の人は待てる。後から来る重症者の場所を空けたい」
サルマンは文句を言わず、怪我人の背を押した。
店主が熱湯を運んできたところで、入口の外から別の声がした。
「棚卸しの最中に何を――」
細いがよく通る声だった。濃紺の外套を着た女が、雨粒を払うのも忘れて立ち尽くしている。脇には帳簿の包み。町の者ではない整った服装だ。
クロエが短く告げる。
「監査の人」
なるほど、場違いな綺麗さの正体はそれか。
「見てのとおりです」
アルハシムは会計札を三枚まとめて彼女へ差し出した。
「文句はあとで。今はこの番号を見て、誰がどこに座ったかだけ書いてください。字がきれいそうなので」
女は目を見開いた。
「初対面の相手に、ずいぶん失礼ね」
「座ってる暇がある人は全員戦力です」
彼女は一秒だけ黙り、それから濡れた袖をまくった。
「ジュエルよ。あとで覚えていなさい」
「覚えておきます」
そうして、喫茶店は診療所になった。
珈琲の香りの残る卓の上へ布が敷かれ、会計札が患者の首に揺れ、厨房では湯が絶えず沸き続ける。サルマンが入口をさばき、クロエが必要な物を黙って運び、ジュエルが帳面に番号を書きつけ、エスメラルダが治療し、アルハシムがその間の詰まりをほどいて回る。
外で風が鳴った。
誰かが小さく、嵐が来る、と呟いた。
アルハシムは倒れた椅子を最後の一本だけ起こし、自分は座らずに店の中央へ立った。
たぶん、今夜は眠れない。
それでも、ここはもう、ただの店ではなくなっていた。




