第3話 追放通知は嵐の前に
王都を出る荷馬車は、夜明け前の市場跡に集まる。
魚の匂いが抜けきらない石畳の上で、行商人たちが縄を締め、御者たちが眠そうにあくびを噛み殺していた。追放者に用意される席など本来ない。けれど門番に銀貨を一枚渡すと、御者の一人が鼻を鳴らして顎をしゃくった。
「海沿いの分かれ道までだ。それ以上は知らん」
「十分です」
荷台の隅に腰を下ろす。板の硬さが、徹夜続きの体に容赦なく響いた。
王都の城壁が遠ざかるにつれ、朝焼けは薄れていった。畑地帯を過ぎる頃には、空の色が青ではなく灰色に寄り始める。御者が嫌そうに舌打ちした。
「今年は早いな」
「何がです」
「海の嵐だよ。灰青の嵐。見たことねえのか」
アルハシムは首を振った。王都の中で帳場と病棟を往復していた身には、辺境の空の癖まで知る機会がない。
御者は手綱を操りながら続けた。
「南東の港町じゃ、あれが吹くと船が寄りつかねえ。人も物も止まる。病まで流行る。だから俺はこの時期の海路が嫌いなんだ」
「港町……ナーイラもですか」
御者がちらりとこちらを見た。
「行くのか、あそこへ」
「行けるところが、そこくらいしかなくて」
半分は本当だった。もう半分は、自分でも説明しきれない。
王都から一番離れた場所へ行きたかったのかもしれない。あるいは、中央治療院とつながりの薄い土地でなければ、新しく働き口を探す望みがなかったのかもしれない。
荷台が揺れるたび、眠気とだるさの底から、別の記憶が浮かんでは沈んだ。
蛍光灯の白さ。深夜の詰所。紙コップのぬるいコーヒー。電子音の鳴り続けるカウンター。
前の世界の記憶だ。
病床調整と搬送手配を担当していた頃、電話は一日じゅう鳴っていた。空きベッドを探して病院同士をつなぎ、救急車の受け入れを頼み、家族へ説明し、現場と管理職の板挟みになる。あの世界でも、自分は剣を持たなかった。派手な手術もしなかった。ただ、今どこに誰を置くか、その一点だけで何十人もの運命が変わった。
そして、ある冬の明け方、仮眠室へ向かう途中で床に倒れた。
心臓だったのか、脳だったのか、今では曖昧だ。覚えているのは、自販機の光がやけに青かったことと、誰かが「まだ引き継ぎしてない」と遠くで焦っていたことだけ。
目を開けた時、自分はこの世界で、アルハシムという名を持っていた。
荷馬車が大きく跳ねた。現実へ引き戻される。
昼過ぎ、御者は約束どおり海沿いの分かれ道で荷台を止めた。空には、普通の雨雲とは違う青みを帯びた灰色の層が垂れ込めている。風はまだ弱いが、湿り気が重く、塩の匂いがした。
「ここから先は歩け。右に行けば内陸、左に行けばナーイラだ」
御者はそれだけ言って、さっさと手綱を引いた。荷車の車輪が泥をはね上げ、道の先へ消えていく。
残されたのは、小さな荷と、自分の足だけだった。
アルハシムは左へ向かった。
道はすぐに荒れた。石畳は途切れ、土の道に海風が斜めに吹きつける。やがて雨が混じり始め、灰と青を混ぜたような雲の下で、遠くの波が低く唸った。
歩きながら、何度も引き返す理由を考えた。
王都に戻っても門前払い。内陸へ向かっても紹介状はない。手元の金は、安宿に二、三泊すれば消える。だったら進むしかない。
風が一段強くなり、肩掛けの布がばたついた。道端の枯れ草が伏せる。前方の丘を越えた瞬間、視界の先に海が開けた。
灰色の海だった。
その縁にへばりつくように、港町が見えた。石積みの防波堤、低い屋根、風を避けるように身を寄せた家並み。王都の白い塔とは何もかも違う、小さく、古く、しかし人の暮らしの熱がまだ残っている町。
ナーイラ。
名を頭の中で唱えた時、喉の奥に鉄の味が広がった。空腹だ。そういえば、朝から固いパンを一つ口にしただけだった。
町へ下る坂道に入ったところで、ついに雨が本降りになった。しかもただの雨ではない。粒が細かく、肌に触れるとひやりと痺れる。魔力を含んでいる、と御者が言っていた意味がわかる。空そのものがざわついているようで、耳鳴りがした。
門に近い広場では、人々が急いで荷をしまっていた。
「板を寄こせ!」
「魚籠は中へ!」
「今日はもう船は出さない!」
怒鳴り声は荒っぽいのに、動きには無駄がない。嵐に慣れている町の手つきだった。
アルハシムは雨除けのある軒先を探して歩いたが、どこも人で埋まっていた。視界の端で、木の看板が風に揺れる。
雨待ち亭。
濡れた文字を読み取った瞬間、中から食器の触れ合う音と、誰かの短い叱責が聞こえた。喫茶店らしい。今の自分には、椅子と温かい湯さえあれば十分だった。
扉を押し開ける。
潮と雨の匂いに混じって、煎った豆の香りが鼻を打った。
だが安堵する間もなく、店の奥から悲鳴が上がる。
「誰か手を貸して! また一人倒れた!」
アルハシムは反射で顔を上げた。
考えるより先に、体が動いていた。




