第2話 美しいのが罪でした
翌朝、王都中央治療院の中庭には、昨夜の雨を吸った土の匂いが残っていた。
徹夜明けの治療師たちが井戸水で顔を洗い、薬師見習いたちが眠そうな目で乾燥棚を運ぶ。いつもなら少しは緩む時間帯なのに、その日は妙に人の動きがそわそわしていた。
理由はすぐにわかった。
昨日、銀札で割り込んできた伯爵家の令嬢が、快方へ向かったらしい。
「院長のお見立てが的確だったそうよ」
洗濯場のそばで女たちが囁き合う。
「でも、最初に指先の震えに気づいたのは、あの帳場の人でしょ」
「そうそう、アルハシム。廊下で令嬢と話してたじゃない」
「見たわ。あれ、顔がいいから目立つのよ」
「だから取り入ったんじゃない?」
「まあ、やだ」
最後の一言には、悪意と退屈しのぎが半分ずつ混ざっていた。
水桶を抱えて通りかかったアルハシムは、足を止めずに呟いた。
「美しいのが罪でした」
聞こえるように言ったせいで、洗濯場がしんと静まる。次の瞬間、若い見習いが吹き出し、つられて別の者まで肩を震わせた。
「冗談が言えるほど元気なら、南棟の包帯替えを手伝ってくれませんか」
アルハシムが振り返らずにそう言うと、笑っていた見習いは慌てて桶を置いた。
午前のうちは、その軽口で済んだ。
だが昼を過ぎる頃、空気が変わった。
昨夜の搬送記録をまとめていた帳場係が、紙束を落として青ざめた顔で立ち尽くしていたのだ。
「どうした」
アルハシムが駆け寄ると、老人は震える指で一枚の記録票を指した。
中央棟へ入るはずだった男。石工見習い、二十二歳。落材による胸部圧迫。搬送遅延。夜半、呼吸停止。
「亡くなったのか」
帳場係は声も出せず、うなずくだけだった。
昨日、アルハシムが西棟へ押し込んだ石工ではない。その一つ前、銀札の差し込みで順番をずらされた別の患者だ。あと一刻早ければ、救命術が間に合った可能性があった。
紙の上に書かれた黒い文字は乾いているのに、指先が冷たくなった。
――寝かせてくれ。胸が重い。息が、入らない。
昨夜、担架の上で目を閉じていた若い男の断片が、今になって耳の裏に蘇る。
アルハシムは記録票を持って、院長室へ向かった。
分厚い扉の向こうには、香の匂いと静けさがあった。さっきまで廊下で人がうめいていたとは思えないほど整然としている。大きな机の向こうで、セヴランは封蝋のついた書状を読んでいた。
「どうした、アルハシム」
「昨夜の搬送遅延で、石工見習いが亡くなりました」
「それで」
「それで、では困ります」
アルハシムは記録票を机へ置いた。
「中央棟三番を差し替えなければ、救命術に回せた可能性がありました」
セヴランは紙に一度だけ目を落とし、すぐに視線を戻した。
「可能性の話か」
「現場は可能性で動いています」
「現場は結果で裁かれる」
「なら、この結果を誰が引き受けるんです」
沈黙のあと、セヴランはゆっくりと椅子にもたれた。
「君だ」
あまりにも迷いのない答えに、アルハシムは一瞬意味を取り損ねた。
「……何を言っているんです」
「搬送と寝台配分を担当していたのは君だ。私の指示をどう現場へ落とし込むかは、帳場の裁量でもある」
「銀札を切ったのは院長でしょう」
「証拠は?」
机の上の指が、軽く記録票を叩く。
「ここに、私の名は無い」
「ふざけるな」
声が荒れた瞬間、部屋の外に控えていた護衛が二人、扉の脇に影を落とした。最初からこの流れを想定していたのだと、その時ようやく気づく。
セヴランは立ち上がり、窓辺へ歩いた。
「君は便利だった。患者の顔色を見れば急変を当てる。家族の言い淀みから症状を拾う。現場は君がいると回る。だが、便利な道具ほど、持ち主を選ばないと思い上がる」
「道具なら、壊れるまで使えばいいと?」
「壊れたなら、替えればいい」
アルハシムは奥歯を噛んだ。怒りより先に、妙に冷えたものが胸を満たしていく。
なるほど、と心のどこかで納得してしまった自分がいた。ここ数年、院長は自分を前に出さず、責任だけ曖昧にして現場を回させてきた。無理な寄進枠も、護衛依頼の横入りも、表向きは全部「調整」だった。その調整が人を潰した夜に、切り捨てられる役は最初から決まっていたのだ。
「もう一つある」
セヴランは机の引き出しから羊皮紙を取り出した。
「院内で妙な噂が立っている。患者家族、とくに女たちへ過度に親しく接し、情報を抜いていると」
思わず笑いそうになった。あまりに安い中傷で、逆に手が込んでいる。
「泣いている相手に椅子を勧めたら、色目を使ったことになるんですか」
「受け取り方は人それぞれだ」
「死者まで利用する気か」
「君が勝手に政治を持ち込んだ結果だよ、アルハシム」
その一言で、もう何も言う価値がないとわかった。
机の上には、追放通知が置かれていた。王都中央治療院および関連施設への立ち入り禁止。記録閲覧の停止。貸与品の返還。即日。
午後には、噂は廊下の端から端まで走っていた。
「患者に取り入っていたらしい」
「夜中に記録をいじったとか」
「院長に逆らったんですって」
誰も真相を知らないくせに、断片だけで人は気持ちよく残酷になれる。
アルハシムは黙って机の引き出しを空にした。紐で縛った備忘録、擦り切れた手袋、乾いた薬草の切れ端、いつか患者の子どもにもらった木の駒。それだけしかない。
若い治療師が、何度も近づいては離れた。昨夜少年を助けたあの男だ。最後に意を決したように小声で言う。
「昨日の子……助かりました」
「よかった」
「俺、わかってます。あなたがやったこと」
「わかってるなら、次は自分で動け」
アルハシムは木の駒を懐へ入れた。
「助けられる時に、助けろ。それだけです」
夕方、正門まで荷物を持って行かされた時、空は薄い鉛色に曇っていた。門番は目を合わせない。護衛は形式だけ恭しく一礼し、次の瞬間には背を向けた。
王都中央治療院の白い建物を振り返る。
何百人もの命が、あの中で今日も順番を待っている。
自分がいなくなっても回るなら、それでいい。そう言い聞かせようとして、うまくいかなかった。
門の外へ一歩出た瞬間、建物の向こうで鐘が鳴った。
また新しい搬送が来たのだろう。
アルハシムは足を止めなかった。




