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追放された転生満床調整係、辺境喫茶で命をつなぐ  ――テレパシー持ちの俺は、満員の治療院も嵐の港町も回してみせる――  作者: 乾為天女


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第1話 満員の病院

 王都中央治療院の朝は、鐘が鳴る前から始まっていた。


 石造りの長い廊下には、夜のうちに運び込まれた担架が壁際まで並び、寝台に乗れない者は毛布だけをかけられて床に横たわっている。開け放たれた窓からは春先の冷たい風が入り込むのに、建物の中は薬草を煮る匂いと汗と血の生臭さでむせ返っていた。


 泣く子どもの声。水をくれと掠れた声。順番はまだかと怒鳴る男の声。治療師を呼べと金切り声を上げる付き人。どれも切羽詰まっているのに、全部を同時に受け止めていたら足が止まる。


 アルハシムは受付台の上に広げた板札を指で滑らせた。


 赤札が四枚。黄札が七枚。白札が十一枚。空き寝台、南棟に二つ、西棟に一つ。煎じ薬の在庫は咳止めが六、解熱が三、止血布が五束。治療師の手は、重傷室に二人、産科に一人、外来の巡回に二人。


 足りない。


 わかりきっている現実を、改めて胸の中で読み上げる時間は無駄だった。アルハシムは振り返りもせずに声を飛ばした。


 「南棟二番の寝台を空けて。今から運ぶのは腹膜の炎症が疑わしい少年だ。西棟の一つは階段から落ちた石工へ。息が浅い。外来の解熱薬は子ども優先、成人は薄めて回して」


 「誰に言ってる!」


 後ろで帳場係の老人が怒鳴った。


 「聞こえてる人みんなにです」


 「そんな雑な指示で回るか!」


 「回らないなら、回るように動いてください」


 アルハシムはそう返して、今度は担架の列へ歩いた。雑音の海に足を踏み入れると、胸の奥で小さな引っかかりが生まれる。頭の中を読めるわけではない。そんな大層なものではない。ただ、隣に腰を下ろした時だけ、相手が必死に押し殺している不安や痛みが、水面に浮く油のようにひとかけらだけ滲んでくる。


 古い木椅子に腰を落とした。隣には、熱で赤くなった幼い男の子を抱いた母親がいた。唇が白い。子どもの喉はひゅうひゅう鳴っている。母親は順番札を握りしめ、治療師の背中ばかり見ていた。


 その瞬間、アルハシムの耳の奥に、言葉とも呻きともつかない感触が触れた。


 ――水が、入らない。飲ませると、むせる。もう三日。


 アルハシムは子どもの口元を見た。乾いているのに、母親の袖は濡れている。無理に水を飲ませようとして、吐かせた跡だ。


 「この子、飲ませると咳き込みますね」


 母親がびくりと肩を震わせた。


 「どうして……」


 「今は説明より先に運びます」


 アルハシムは立ち上がり、通りかかった若い治療師の袖をつかんだ。


 「この子を先に診て。喉じゃない、胸の奥も見て。水が取れてない」


 「でも、順番が――」


 「順番で死なせる気か」


 声を落としたつもりだったが、近くの患者たちまで静まった。若い治療師は一拍だけ逡巡し、母親の腕の中の子どもの呼吸を見て顔色を変えた。


 「担架!」


 すぐに二人が走ってくる。アルハシムはその隙に、後方の列にいた皮鎧の男へ指を向けた。


 「次はあの猟師だ。左脚だけじゃない。顔色が悪い。失血が進んでる」


 「見ただけで?」


 「見ればわかる」


 半分は嘘で、半分は本当だった。わかる時は、見ればわかる。


 廊下の端から、磨き上げられた靴音が近づいてきた。人の波が自然に割れる。紫の縁取りの入った外套をまとった付き人が二人、その後ろを香油の匂いをまとった若い女が歩いていた。担架でもない。歩ける。なのに、付き人は憤然とした顔で喚いた。


 「道を開けなさい! 伯爵家の令嬢がお着きだ!」


 ただでさえ煮詰まった空気が、さらに重くなる。


 アルハシムは帳場へ戻るふりをして、すれ違いざまに令嬢の顔を見た。化粧の下で、唇の色が悪い。右手の指先がわずかに震えている。付き人の胸元には特別搬送の銀札が下がっていた。


 嫌な予感がした。


 その銀札は、本来なら瀕死の者に使う。


 「その札、誰が切ったんです」


 付き人が鼻で笑う。


 「お前ごとき下働きに答える必要が?」


 「必要はあります。この札一枚で、後ろにいる誰かが後回しになるから」


 「失礼な!」


 怒声が飛ぶ。令嬢は怯えたように目を伏せたが、その指はまだ細かく震えていた。貧血か、薬の副作用か。病状そのものは確かに軽くはない。ただ、今この廊下に転がっている者たちを押しのけるほどではない。


 アルハシムが答えを返す前に、二階の回廊から重い声が落ちてきた。


 「その方は私が預かろう」


 院長セヴランだった。


 黒い法衣を乱さず階段を降りてくる姿は、誰の目にも頼もしく映るのだろう。だが、アルハシムはあの男の視線が、患者ではなく家名と金と見返りの上を滑っていく瞬間を何度も見てきた。


 「アルハシム」


 名を呼ぶ声音だけは穏やかだった。


 「中央棟三番を空けろ。令嬢を入れる」


 「三番は、さっき腹の少年を入れる予定でした」


 「なら他をずらせ」


 「他をずらすと、今夜を越えられない者が出ます」


 周囲の空気が凍った。帳場係が青ざめる。若い治療師たちは視線を落とした。


 セヴランは怒鳴らなかった。ただ、笑みの形だけを整えたまま、細い目をアルハシムに向けた。


 「君は、全体を見ているつもりで視野が狭い。貴い身分の者を治すことは、結果として多くの寄進につながる。寄進があれば、平民も救える」


 「今日倒れている人たちは、今日の寄進では救えません」


 「口答えか」


 「確認です」


 短い沈黙のあと、セヴランは付き人へ向き直った。


 「中央棟三番へ」


 それで決まった。


 アルハシムは歯を噛みしめたまま、札を並べ替えた。少年を南棟へ回し、石工を西棟へ押し込み、咳き込む老人の寝台を屏風の裏へ移す。誰かを優先するたび、誰かが少しずつ狭い場所へ追いやられる。


 昼を過ぎる頃には、廊下の熱気で窓ガラスが曇っていた。アルハシムは椅子を運び、薬草袋をほどき、時には患者の肩を抱えて寝返りを打たせた。治療院の誰もが自分の持ち場で限界まで動いている。だからこそ、上から一枚差し込まれる銀札が、すべてを台無しにする。


 夕刻、最初に運んだあの少年が、ようやく水を飲めるようになったという知らせが届いた。


 「助かったのか」


 若い治療師が頷く。


 「胸の炎症でした。もう少し遅れていたら危なかったです」


 その報告を聞いた瞬間だけ、アルハシムは喉の奥の苦みを忘れた。椅子一脚ぶんの判断でも、命はつなげる。そう思えるから、まだここに立っていられる。


 だが同じ頃、中央棟の奥で、別の呻きが長く尾を引いた。


 銀札で後回しになった搬送の列が、まだ片づいていない。


 アルハシムは板札を握り直した。


 今夜は長くなる。



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