第8話「決意の夜と初めての口づけ」
バルタザール卿の訪問以来、公爵邸には目に見えない緊張感が漂い始めた。リリィは身の危険を感じながらも、解毒の香りの研究を続けた。エリオットもまた、バルタザール卿の不正の証拠を掴むため、水面下で調査を進めていた。
二人は互いを気遣い、これまで以上に多くの時間を共にするようになった。それは、互いの存在が唯一の心の支えだったからだ。
***
ある夜、リリィは研究の末、ついに解毒香のレシピを完成させた。
銀の月見草の毒を浄化する「聖なる木」の樹脂。
身体の治癒力を高める「太陽の雫」と呼ばれる花の蜜。
そして、それらの効果を最大限に引き出す、数種類のハーブ。
どれも希少で、手に入れるのが難しい材料ばかりだったが、エリオットが公爵家の力を使い、すぐさま世界中から取り寄せてくれた。
あとは、これを調合し、完成させるだけ。
その夜、リリィはエリオットの書斎を訪れた。
「エリオット様。ついに、解毒の香りが完成しそうです」
「本当か、リリィ!」
エリオットは思わず立ち上がった。その顔には、隠しきれない喜びと期待が浮かんでいた。
「これを焚けば、あなたの体内に蓄積された毒は、少しずつ浄化されていくはずです。時間はかかるかもしれませんが、きっと、元の身体に戻れます」
「……君のおかげだ。本当に、感謝している」
エリオットはリリィの肩に手を置き、まっすぐに彼女の瞳を見つめた。その真摯な眼差しに、リリィは胸が高鳴るのを感じた。
「エリオット様が元気になるなら、私は……」
言いかけて、リリィは言葉を飲み込んだ。
(あなたの呪いが解けたら、私たちの契約は終わり……)
その事実が、重く胸にのしかかる。彼を助けたい気持ちと、彼と離れたくない気持ちが、リリィの中で激しくせめぎ合う。
そんなリリィの心の揺れを、エリオットは見抜いていた。
「リリィ」
彼は、そっとリリィの頬に手を伸ばした。その指先が、彼女の涙を優しく拭う。
「……え?」
いつの間にか、涙がこぼれていたことに、リリィは自分でも驚いた。
「俺の呪いが解けたら、君は自由になる。……それが、君の望みのはずだ」
エリオットの声は、ひどく切なげに響いた。
「でも、俺は……君を手放したくない」
「え……?」
「初めて会った時から、君は特別だった。俺の無機質な世界に、彩りと温もりをくれた。君がいない人生など、もう考えられない」
鉄仮面は、そこにはなかった。ただ、一人の女性を愛おしむ、一人の男の顔があるだけだった。
「リリィ。俺は、君を愛している」
「エリオット、様……」
「呪いが解けたら、改めて君に求婚する。偽りじゃない、本当の夫婦として、俺の側にいてほしい。……駄目だろうか?」
不安げに揺れる彼の瞳を見て、リリィの涙腺は完全に決壊した。
「私も、です……! 私も、あなたのことが、好きです……!」
嗚咽混じりに告げると、エリオットは安堵したように息をつき、リリィを強く抱きしめた。
彼の腕の中は、リリィがずっと夢見ていた「陽だまり」そのものだった。温かくて、安心できて、ずっとここにいたいと思える場所。
エリオットはそっとリリィの顔を上げさせると、ゆっくりと顔を近づけた。
そして、二人の唇が、そっと重なった。
それは、リリィが調合するどんな香りよりも甘く、切なく、そして優しい、初めての口づけだった。
***
お互いの気持ちを確かめ合ったことで、二人の決意はより一層固いものになった。
必ず、バルタザール卿の陰謀を暴き、呪いを解く。そして、二人で本当の幸せを手に入れるのだ、と。
しかし、彼らの決意をあざ笑うかのように、バルタザール卿の魔の手は、すぐそこまで迫っていた。
その夜、リリィの工房に、一人の男が忍び込んだ。バルタザール卿に雇われた、裏社会の人間だった。男の目的は、リリィが作っている解毒の香りを破壊し、彼女の命を奪うことだった。
ガラスの蒸留器や薬瓶が、次々と床に叩きつけられ、粉々に砕け散る。男は、部屋の隅で完成間近だった解毒香の入った小瓶を見つけると、にやりと笑い、それを手に取った。
そして、物音に気づいて駆けつけたリリィの姿を認めると、懐から短剣を抜き放った。
「……お嬢さんには、ここで消えてもらう」
絶体絶命。リリィは恐怖に目を見開いた。
その時、工房の扉が勢いよく開け放たれた。
「リリィ!」
そこに立っていたのは、鬼の形相をしたエリオットだった。
決戦の時は、あまりにも突然、訪れた。




