第5話「古書のインクと動き出す運命」
夜会での一件以来、リリィとエリオットの関係は少しだけ変化した。相変わらず会話は少ないが、二人の間に流れる空気は以前よりも穏やかで、どこか心地よいものになっていた。
リリィは日中、工房での研究に没頭していた。エリオットの体質改善のため、様々な香りの組み合わせを試す日々。その中で、彼女はあることに気づいた。
「サンダルウッドと、シダーウッド……。エリオット様は、木の香りを好まれるみたい」
特に、古い書物を思わせるような、落ち着いた樹木の香りに、彼は安心するようだった。
(そうだ、あれを作ってみよう)
リリィはひらめいた。それは、香油をしみこませた、栞だ。本を読むのが好きな彼に、ぴったりの贈り物になるだろう。
彼女は上質な紙を選び、サンダルウッドとシダーウッドをベースに、ほんの少しだけ柑橘系のベルガモットを加えた特製の香油を調合した。知的で、落ち着いた、彼にふさわしい香りだ。
「できました……!」
完成した香りの栞を手に、リリィはエリオットの書斎へ向かった。
「エリオット様、今よろしいですか?」
「ああ、構わん」
彼は分厚い本から顔を上げた。その姿は、まるで一枚の絵画のようだ。
「あの、これ……」
リリィは少し照れながら、栞を差し出した。
「栞、ですか?」
「はい。読書の邪魔にならないように、香りはごく控えめにしてあります。木の香りが、少しだけ頭をすっきりさせてくれるかもしれません」
エリオットは栞を受け取ると、その香りを確かめるように鼻に近づけた。そして、わずかに目を見開いた。
「……いい香りだ。気に入った」
彼はそう言うと、読んでいた本のページに、その栞をそっと挟んだ。そして、リリィの方を向き直り、こう言った。
「礼を言う、リリィ。……大切にする」
鉄仮面は相変わらずだったが、その声は驚くほど優しかった。リリィは胸がきゅんとなるのを感じた。
***
その日から、エリオットはどんな本を読むときも、必ずその栞を使うようになった。そして、リリィは不思議な変化に気づき始める。
エリオットの側にいると、ごく微かに、あの栞と同じ香りがするようになったのだ。それはまるで、彼自身から香っているかのようだった。
(気のせいかな……? でも、確かに……)
香りは、サンダルウッドとシダーウッドの香り。古い木の、落ち着いた香り。それは、夢で嗅いだ「運命の香り」の片鱗――「古書のインクの香り」によく似ていた。
まさか、と思う。彼は無臭のはずだ。運命の相手ではないはず。
でも、もし。もしも、彼の呪いが解けたら? 彼本来の香りが、あの夢の香りと同じだったら?
そんな淡い期待が、リリィの胸に芽生え始めていた。
その期待を確信に変えるような出来事が、数日後に起こる。
***
その日、エリオットは公務で朝から王城へ出かけていた。一人で昼食をとっていたリリィの元に、一人の紳士が訪ねてきた。
「やあ、リリアーナ嬢。エリオットは留守かな?」
柔和な笑みを浮かべた、初老の男性。彼こそが、エリオットの叔父であり後見人でもある、バルタザール・クロフォード卿だった。
「バルタザール様。はい、エリオット様は本日、王城へ」
「そうか。いやなに、君に一度、挨拶をしておこうと思ってね。甥が、ようやく素晴らしい伴侶を見つけたと聞いて、安心したよ」
バルタザールはにこやかに語る。しかし、リリィはその笑顔の奥に何か冷たいものを感じて、背筋がぞくりとした。
「君は調香師だそうじゃないか。エリオットのあの体質も、君のおかげで少しは良くなるといいのだが……。あの子は昔から、体が弱くてね。私が色々と滋養強壮の薬を飲ませてやったものだよ」
「薬、ですか?」
「ああ。公爵家の秘伝のハーブを調合した、特別なものだ。まあ、結局あまり効果はなかったようだがね」
バルタザールはそう言って笑ったが、その目が全く笑っていないことに、リリィは気づいた。
***
彼が帰った後、リリィは何とも言えない胸騒ぎを覚えていた。滋養強壮の薬。公爵家の秘伝のハーブ。何かが引っかかる。
(少し、調べてみる必要があるかもしれない)
リリィは公爵家の書庫へ向かった。薬草や毒草に関する古い書物を手当たり次第に調べていく。
***
日が暮れる頃、エリオットが帰ってきた。彼は書斎でリリィの姿を見つけると、少し驚いたように眉を上げた。
「リリィ? こんなところで何を……」
「エリオット様、お帰りなさい。少し、調べ物をしていました」
リリィが顔を上げると、エリオットは彼女の近くの椅子に腰を下ろした。彼が動くと、ふわりと、あの栞の香りがした。いや、それだけじゃない。
(……え?)
彼の側だけ、空気が違う。まるで、柔らかな陽の光を浴びているかのような、温かい空気に包まれている。
リリィは、はっと息をのんだ。
夢で見た、運命の香り。「陽だまりと古書のインクが混じる、穏やかで知的な香り」。
彼から香る「古書のインク」のような匂い。そして、彼が側にいると感じる「陽だまり」のような温かい空気。
二つのピースが、今、リリィの中で一つにつながろうとしていた。
(まさか、本当に……。あなたが、私の運命の……?)
リリィは、目の前にいる無表情な公爵を、信じられないという思いで見つめた。
もし、そうだとしたら。彼の呪いが、彼本来の香りを閉ざしているのだとしたら。
「どうした、リリィ。俺の顔に何かついているか?」
不思議そうに首を傾げるエリオットに、リリィはぶんぶんと首を横に振った。
「いえ、なんでもありません!」
高鳴る胸の鼓動を隠すように、リリィは再び書物へと視線を落とした。けれど、もう文字は頭に入ってこない。
動き出した運命の歯車が、カタカタと音を立てている。偽りの婚約から始まったこの関係は、もはやビジネスだけでは片付けられない、特別なものへと変わりつつあった。リリィは、自分の恋心を、はっきりと自覚し始めていた。




