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香りの祝福を持つ見習い調香師、匂いを感じない鉄仮面公爵の専属になったら契約婚約から本物の溺愛へ!  作者: 黒崎隼人


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第3話「陽だまりの工房と不器用な優しさ」

「ここが、君の工房だ」


 エリオットに案内されたのは、公爵邸の離れにある一室だった。南向きの大きな窓から柔らかな光が差し込み、部屋の隅にはガラス製の蒸留器や乳鉢、ずらりと並んだ小瓶が陽光を反射してきらきらと輝いている。


「すごい……! こんなに素晴らしい設備、夢のようです」


 リリィは目を輝かせた。王都の小さな工房とは比べ物にならないほど、本格的で充実した設備だ。これなら、研究も大いにはかどるだろう。


「必要なハーブや香料があれば、何でも申し付けろ。世界中から取り寄せさせる」


「ありがとうございます、エリオット様!」


 リリィが満面の笑みで振り返ると、エリオットはふいと顔を背けた。その耳が、ほんの少しだけ赤くなっていることに、リリィはまだ気づいていない。


***


 偽りの婚約生活が始まって、一週間。リリィの生活は一変した。豪華なドレスに身を包み、公爵令嬢としての作法を学び、エリオットと共に食事をとる。すべてが目まぐるしいけれど、彼女の心は不思議と落ち着いていた。

 何より、この工房で香りの研究に没頭できる時間が、リリィにとって至福のひとときだったからだ。


(まずは、エリオット様の精神を安定させる香りから試してみよう)


 リリィは、カモミールやラベンダー、ベルガモットなどをブレンドし、心を落ち着かせる効果のある香油作りに取り掛かった。乳鉢でハーブを丁寧にすり潰し、キャリアオイルと混ぜ合わせ、ゆっくりと加熱していく。工房の中に、穏やかで優しい香りが満ちていく。


***


 その日の夕食後、リリィは完成した香油を小さな小瓶に入れ、エリオットの書斎を訪れた。


「エリオット様、試作品ができました」


 エリオットは山のような書類から顔を上げた。彼は日中、領地の政務で忙しくしていることが多い。


「これは?」


「安眠効果のある香油です。枕元に数滴垂らしたり、ハンカチに染み込ませてお使いください。きっと、お気に召すと思います」


 リリィが小瓶を差し出すと、エリオットはそれを受け取り、静かに蓋を開けた。そして、その香りを確かめるように、ゆっくりと息を吸い込む。

 彼の眉間のしわが、ほんの少し和らいだように見えた。


「……悪くない。心が安らぐ香りだ」


「よかった!」


 自分の作った香りが受け入れられたことが、リリィは何よりもうれしかった。


「他にも、集中したい時用の香りや、気分をリフレッシュさせたい時の香りも作ってみますね!」


「ああ、頼む」


 エリオットの返事は相変わらず短いが、その声には以前のような冷たさがなくなってきている気がした。

 リリィは、彼のことをもっと知りたいと思った。なぜ、彼は香りを拒絶するようになったのか。その原因を探るには、彼の過去を知る必要がある。


「あの、エリオット様。差し支えなければ、あなたの子供の頃のお話を聞かせてもらえませんか?」


 リリィが思い切って尋ねると、エリオットの動きがぴたりと止まった。書斎に、気まずい沈黙が流れる。


(しまった、踏み込みすぎたかも……)


 リリィが後悔しかけた、その時だった。


「……昔から、こうだった」


 エリオットは、ぽつりとつぶやいた。


「物心ついた時から、香りは俺にとって苦痛でしかなかった。両親は俺の体質を治そうと、あらゆる手を尽くしてくれたが……。俺が十歳の時に事故で亡くなってからは、後見人である叔父上が色々と世話をしてくれていた」


 叔父、バルタザール卿。温厚な紳士だと聞いているが、どこか掴みどころのない人物だという。


「医者にも、原因は不明だと言われた。呪いだと囁く者もいたが、確かめようがない」


 彼の声には、深い諦観が滲んでいた。リリィは、胸が締め付けられるような痛みを感じた。彼がどれほどの孤独を抱えて生きてきたのか、その一端に触れた気がした。


「……私が、必ず原因を突き止めてみせます。だから、諦めないでください」


 リリィは、彼の手にそっと自分の手を重ねた。エリオットの肩が、びくりと震える。


「なっ……!」


「あっ、ご、ごめんなさい! つい……」


 慌てて手を離そうとしたリリィの手を、しかし、エリオットが力強く掴んだ。


「……いや、いい」


 彼の大きな手が、リリィの小さな手を包み込む。その手は、ひんやりとしていたけれど、不思議な温かみがあった。


「君の手は、温かいな」


 そう言ったエリオットの顔は、なぜか少しだけ赤く見えた。


***


 その夜、エリオットは自室のベッドで、リリィが作った香油を試していた。枕元に垂らすと、穏やかなハーブの香りがふわりと広がる。


(本当に、心が安らぐ……)


 これまで、安眠などできたためしがなかった。いつも悪夢にうなされ、浅い眠りを繰り返すばかり。だが今夜は、深く眠れそうな気がした。

 リリィの手の、柔らかな感触と温かさを思い出す。触れられた瞬間、心臓が大きく跳ねた。女性に触れられて、こんな気持ちになったのは初めてだった。


(あれは、ただの仕事上のパートナーだ。勘違いするな)


 エリオットは自分に言い聞かせるように、ぎゅっと目を閉じた。鉄仮面の下で、彼の心が少しずつ溶け始めていることを、彼自身はまだ認めようとしなかった。

 一方、リリィもまた、自室のベッドでドキドキする胸を押さえていた。エリオットに掴まれた手の熱が、まだ残っているようだ。


(何だろう、この気持ち……)


 彼は運命の相手ではない。そう頭では分かっているのに、彼の寂しげな瞳や、時折見せる不器用な優しさに触れるたび、心が揺れる。

 偽りの婚約。ビジネスライクな関係。そう割り切っていたはずなのに。

 リリィは、これから先の生活が、自分の想像以上に心をかき乱すものになることを、予感せずにはいられなかった。

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