番外編「公爵夫妻の甘い香り」
結婚から一年が過ぎた、ある晴れた日の午後。
リリィは、あのガラスの温室で、新しい香水の試作に励んでいた。クロフォード公爵夫人となっても、彼女の香りへの情熱は変わらない。今では、彼女の作る香水は「リリアーナ・クロフォード」のブランドとして、王都中の貴婦人たちの間で大人気となっていた。
「うーん、もう少し、甘さを足した方がいいかしら……」
リリィが小瓶を片手に首をひねっていると、背後からふわりと、愛しい香りに包まれた。
「また、仕事に夢中か?」
振り返ると、夫であるエリオットが、優しい笑みを浮かべて立っていた。彼は後ろからリリィをそっと抱きしめ、彼女の首筋に顔をうずめた。
「エリオット! くすぐったいですよ」
「君の香りを嗅ぐと、落ち着くんだ」
彼の甘い囁きに、リリィは頬を赤らめた。結婚して一年経っても、彼の愛情表現はストレートで、いつもリリィをドキドキさせる。
「今日は、もう仕事はおしまいだ。少し、付き合ってほしい」
「どこへ行くのですか?」
「秘密だ」
エリオットは悪戯っぽく笑うと、リリィの手を取って温室の外へと連れ出した。
彼が向かった先は、馬小屋だった。そこには、二頭の馬が用意されている。
「乗馬ですか? 私、あまり得意では……」
「大丈夫。俺が教えてやる」
エリオットは軽やかに馬にまたがると、リリィに向かって手を差し伸べた。リリィがその手を取ると、彼は彼女をひょいと持ち上げ、自分の前に座らせる。
「きゃっ!」
「しっかり掴まっていろ」
リリィは、エリオットのたくましい胸に背中を預ける形になった。彼の体温と、陽だまりと古書の香りに包まれて、心臓が大きく鳴る。
馬は、緑の丘に向かってゆっくりと歩き始めた。
心地よい風が、二人の髪を優しく撫でる。
「気持ちいい……!」
「だろう?」
丘の上に着くと、そこには息をのむような絶景が広がっていた。眼下には、きらきらと輝く湖と、美しいクロフォード公爵領の街並みが見渡せる。
そして、丘の上には、一枚の大きなブランケットが敷かれ、その上には美味しそうなサンドイッチやフルーツが並んだバスケットが置かれていた。
「ピクニック……! あなたが、用意してくれたのですか?」
「ああ。たまには、二人でゆっくり過ごすのもいいだろう?」
エリオットは馬から降りると、リリィを優しく抱き下ろした。
二人はブランケットに並んで座り、手作りのサンドイッチを頬張った。他愛もない話をして、笑い合う。それは、穏やかで満ち足りた時間だった。
ふと、リリィは空を見上げた。
「一年前は、こんな日が来るなんて、想像もできなかったな」
「そうだな」
エリオットも、リリィの視線の先を追うように、空を見上げた。
「俺は、君と出会うまで、本当の意味で生きていなかったのかもしれない。無臭で、無感動な、色のない世界で……。でも、君がすべてを変えてくれた」
彼は、リリィの肩を抱き寄せた。
「ありがとう、リリィ。俺を見つけ出してくれて」
「ううん。私の方こそ、ありがとう。あなたと出会えて、私は世界で一番幸せです」
二人は見つめ合い、自然と唇を寄せた。
風が、丘の上に咲く野の花の香りを、優しく運んでくる。雨上がりの土の匂いに、カモミールの甘い香りが一枚混ざったような、そんな穏やかな香り。
それは、二人がこれから共に紡いでいく、新しい「運命の香り」の始まりなのかもしれない。
「愛しているよ、エリオット」
「ああ、俺もだ、リリィ」
幸せな公爵夫妻の周りには、いつだって、世界で一番甘くて優しい香りが満ちている。これからも、ずっと。




