第1話「無臭の公爵と香りの令嬢」
登場人物紹介
◆リリアーナ・ベルク(愛称:リリィ)
本作の主人公。王都の見習い調香師。前世では日本の香水会社で研究員をしていた記憶を持っている。その知識と、眠ると運命の相手の香りを予知できる「香りの祝福」という能力を活かし、人々のための香り作りに情熱を燃やしている。明るく前向きな性格で、誰にでも裏表なく接する。
◆エリオット・クロフォード公爵
「鉄仮面」や「無臭の公爵」と噂される、クロフォード公爵家の若き当主。呪いか病か、あらゆる香りを拒絶する特異な体質を持っている。そのため感情を表に出すのが極端に苦手で、常に冷静沈着。しかし内面は優しく、一度懐に入れた者はとことん大切にする。リリィと出会い、少しずつ心を開いていく。
◆バルタザール・クロフォード卿
エリオットの叔父。弟である先代公爵の死後、エリオットの後見人を務めていた。温厚な紳士を装っているが、その裏には深い野心を隠している。
「――また、この夢」
リリアーナ・ベルクは、心地よい微睡みの中でつぶやいた。
目の前には、柔らかな陽光が降り注ぐ書斎が広がっている。磨き上げられたマホガニーの机、壁一面に並ぶ革張りの書物。そして、ふわりと鼻先をかすめる、甘くも爽やかでもない、けれど不思議と心安らぐ香り。
それは、温かい陽だまりと古書のインクが混じり合ったような、穏やかで知的な香りだった。
リリアーナが持つ、特別な力。眠りにつくと、いつか出会う「運命の相手」から香るはずの匂いを、夢で予知できるのだ。前世で香りの研究員だった知識と記憶を持つ彼女にとって、この能力は神様からの贈り物だと思っている。
(早く会いたいな、この香りの人)
そんな淡い期待を胸に目覚めた朝、リリアーナのささやかな日常は、一通の王家からの召喚状によって大きく揺さぶられることになる。
「私が、公爵様のお世話役に?」
王城の一室で、壮麗な衣装をまとった侍従長から告げられた言葉に、リリアーナは目を丸くした。見習い調香師である自分に、なぜそんな大役が回ってくるのか。
侍従長は重々しく口を開いた。
「クロフォード公爵閣下は、ある特殊な体質に悩まされている。あらゆる『香り』を一切受け付けぬのだ。香水はもちろん、花、食事の匂いですら、時に激しい頭痛を引き起こすという」
「香りが、ダメ……?」
調香師として、それは信じがたい話だった。香りは人生を豊かにするエッセンスだ。それを拒絶するなど、にわかには信じられない。
「これまで何人もの調香師や薬師が呼ばれたが、誰も公爵閣下の症状を和らげることはできなかった。だが、そなたの噂を耳にした。天然素材のみを用い、人の心に寄り添う優しい香りを作る見習いがいる、と。リリアーナ・ベルク嬢、これは王命である。クロフォード公爵の呪いを解く手助けをしてもらいたい」
断るという選択肢などない。王都の外れにある小さな工房で、慎ましく暮らすリリアーナにとって、王命は絶対だ。それ以上に、調香師としての好奇心がむくむくと頭をもたげた。香りを拒絶する体質とは、一体どんなものなのだろう。もしかしたら、私の知識が彼の助けになるかもしれない。
(それに、万が一……ううん、そんな都合のいいこと、あるわけないか)
心の片隅で、夢の香りの主が彼である可能性をほんの少しだけ期待しながら、リリアーナは壮麗な公爵邸の門をくぐった。
***
通された応接室は、豪華絢爛でありながら、不思議なほどに無機質だった。花瓶に花はなく、磨かれた家具からは蝋の匂いすらない。徹底的に香りが排除された空間だ。その異様さに息を詰めていると、重厚な扉が開き、一人の青年が入ってきた。
「君が、王家から派遣された調香師か」
低く、感情の読めない声。寸分の隙もなく着こなした黒の礼服に、銀灰色の髪がさらりとかかっている。そして、彫刻のように整った顔立ちは、噂に聞く「鉄仮面」そのものだ。表情筋というものが存在しないかのように、まったく動かない。
彼が、エリオット・クロフォード公爵。
リリアーナはごくりと唾を飲み込み、期待と不安を胸に、そっと鼻を利かせた。彼の香りを確かめるために。
(……え?)
しかし、何度深呼吸をしても、彼からは何の匂いもしなかった。
香水をつけていないのは当然だろう。けれど、人間ならば誰しもが持つ、肌の匂いや汗の匂い、その人だけの微かな体臭というものが、彼からは一切感じられない。まるで、そこにいるのが人間ではなく、精巧な人形であるかのようだ。
彼は、完璧なまでに「無臭」だった。
「どうした。そんなに俺の顔をじろじろと見て」
「あ、いえ、申し訳ありません!」
思わず彼の顔を凝視していたらしい。リリアーナは慌てて頭を下げた。
(がっかり……。やっぱり、この人じゃなかったんだ)
夢で感じた、あの温かい香りはどこにもない。安堵と落胆が入り混じった複雑な気持ちで、リリアーナは顔を上げた。
「本日よりお世話になります、リリアーナ・ベルクと申します。閣下のお悩みを少しでも和らげられるよう、尽力いたします」
「……エリオットでいい。堅苦しいのは性に合わん」
彼はそう短く言うと、ソファに腰を下ろした。リリアーナも勧められるまま、向かいの席に座る。
「早速だが、俺の体質について説明する。俺は、特に人工的に作られた強い香りを嗅ぐと、耐え難い頭痛に襲われる。貴族の令嬢たちが好んでつける甘い香水などは、その最たるものだ」
エリオットは淡々と語る。その声には、長年の苦しみを諦観したような響きがあった。
「女性を遠ざけていると噂されているのは、それが理由だ。病なのか呪いなのか、原因は分からぬまま……。君には、俺が唯一受け入れられる香りを見つけ出してほしい。それができれば、報酬は望むままに支払おう」
「報酬のためではありません。私は調香師として、あなたの力になりたいんです」
リリアーナはまっすぐ彼の瞳を見つめて言った。その瞳は、まるで色を持たないガラス玉のように冷ややかに見えたが、その奥に深い孤独が滲んでいる気がした。
(この人を、助けたい)
運命の相手ではなかったけれど、調香師としての使命感が、リリアーナの心を強く奮い立たせた。
「まずは、あなたの周りの環境から、少しずつ香りを取り入れていく実験をさせていただけませんか? 私が扱うのは、天然のハーブや木々から抽出した、ごく自然な香りです。きっと、あなたの助けになれるはずです」
リリアーナの熱意ある言葉に、エリオットの眉がほんのわずかに動いた。鉄仮面に生じた、初めての変化だった。
「……好きにしろ。この屋敷のものは、すべて自由に使っていい」
そう言って立ち上がった彼の背中は、あまりにも寂しげに見えた。
リリアーナは、これから始まる前途多難な日々に思いを馳せながら、きゅっと拳を握りしめた。無臭の公爵と、香りを愛する令嬢。二人の出会いは、まだ何の香りもしない、静かな序曲にすぎなかった。




