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オルフェウスの影  作者: 里中 汪


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【特殊案件1】蒸気に溶けた殺意 5/7

6月24日 AM07:28

@東京都中央区 つむぎ損害保険株式会社 損害サービス部 特殊事故対応室


 早朝のオフィスは思考を巡らすのに最適だ。周りに煩わされることも、

気を遣うこともない。自席に座り、モニターを立ち上げる。

画面に表示したのは見慣れた事故調査報告書のフォーマットだ。


件名:労災死亡事故の調査報告(LS食品)


入力カーソルが、点滅している。

事故概要。発生日時。発生場所。被災者情報。淡々と事実を書き連ねていく。

警察資料、労基の是正勧告、現地確認結果。どれも、すでに結論は出ている。


ーー不慮の事故

ーー作業者の安全手順逸脱


約款上、満額支払い。争点なし。

ここまでなら、30分もかからない作業だ。


だが、この件では違う。夜勤シフトの偏り。

貞松さんと高橋さんの証言。特殊な機器とその安全対策。


 カバンから1つの箱を取り出した。

ネットショップで購入したLS社と同型の海外製ゴーグルだ。

防曇ゴーグルは、曇らない。正しく使えば。


オフィスの横にある給湯室へ向かった。

電気ポットのスイッチを入れて少し待つと、湯気が立ち上る。

ゴーグルを、湯気の中に差し出す。1秒。2秒。何も変化がない。


ゴーグルを手に取り、左右両面を念入りにティッシュで拭った。

再び湯気の中に差し出す。1秒。2秒。何も変化がない。


今度は水に濡らしたティッシュで拭った。再び湯気の中に差し出す。

1秒。2秒。内側が、白く濁った。

目に装着すると視界が奪われる。一瞬だが、確実に。


「……そういうことか」

声に出す必要はなかったが、口から漏れた。


防曇ゴーグルは絶対ではない。仮に悪意ある工作を施された場合、

防曇膜は乱されその性能を簡単に失うが、見た目では気付きようがない。


水拭きだけで防曇性が損なわれるとは思っていなかった。

ネットで調べた界面活性剤含有シート拭き、エタノール含有シート拭きも

準備していたが、水拭きという簡易な方法で工作可能であることが分かった。


知っていれば、簡単だ。知らなければ、想定しない。

ゴーグルを外し、カバンに戻した。


貞松さんや高橋さんと同じく、遠藤さんも長年使った防曇ゴーグルを

絶対的に信頼していたのだろう。だから、パニックになった。


完全停止すれば助かった。だが、低速運転でいつも通りに対処した。

そのいつも通りを想定し、誰かが悪意に満ちた罠を仕掛けたのかもしれない。


 事故報告書の続きを打ち始めた。

――当該設備に違法改造および設計上の瑕疵は認められない。

――事業者は事故後、運用手順の見直しおよび教育強化を実施している。


ここまでは事実だ。問題は、その先。報告書は、裁くためのものではない。

事象を漏れなく伝え再発を防ぐためのものだ。


結論欄にはこう記す。

――本件は約款上、免責事由に該当せず、保険金支払対象となる。

――支払額は満額とする。


その下に、補遺事項を付け加える。

――作業用保護具、特に防曇ゴーグルの管理を厳格化し、

  使用前に防曇性の確認を行うことを推奨する。

――装置と作業用保護具の安全管理体制の第三者による再検証を推奨する。


いつの間にか出社していた篠宮が、隣の席から画面を覗いた。

「……そこまで書くんですか」

「事実だからね」

「でも、約款判断には影響しませんよ」

「うん。影響しない」


その言葉に篠宮は違和感を覚えたようだが、それ以上は何も言わなかった。

報告書は完成した。


 午前9時。上司の山本に報告書を提出した。

「相変わらず提出が遅いな」

「何度も推敲していますので」

「まあ、お前の報告書にミスはないしな。満額支払で問題ないか?」

「はい」

「よし」

山本はそれ以上、中身を読まなかった。

数字と結論だけ見て、満足した顔で頷いた。

「結果が出て問題ないなら、それでいい」

いつもの口癖だ。



 昼過ぎ。報告書は正式承認され、保険金支払手続きが進んだ。

報告書は誰も見ないかもしれない。警察は読み飛ばすかもしれない。

それでも、書かずにはいられなかった。


「警察にも出したんですか?」

篠宮が、声を落として聞いた。

「情報共有としてね」

「……問題になりません?」

「ならないよ。判断は、向こうがすることだ」

椅子にもたれ、天井を見上げた。


事故は、もう終わった。

遠藤和也は戻らない。保険金は満額支払われる。


それでも。誰かが事故に見せかけた工作をしたのなら。

その影だけは、残さなければならない。

それが事故調査員の責務だと信じている。

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