最悪な帰路
「……秋山さんさ」
「ん?」
「物に当たるなんて最低だよ、あんなのヤカラと同じだ」
空気が一瞬、凍った。
「……は?」
低い声。
背筋が冷たくなる。
あ、これ本気で殴られるかもしれない。
それでも僕は目を逸らさなかった。
「小学生だってワザとじゃないでしょ、なのにクソガキ呼ばわりはないって…柵だって壊しかけたじゃん…」
秋山さんの目が細くなる。
視線が、鋭く突き刺さる。
……あ、終わったなこれ。
拳でも飛んでくるかと思った、その瞬間。
「…ふふっ」
秋山さんは、急に吹き出した。
「な、何…?」
「…やっぱ鎌谷君、変わってる、私にそんなこと言う人、いなかったよ」
そう言って、肩の力を抜いた。
さっきまでの鋭さは嘘みたいに消えて、代わりに少しだけ、寂しそうな顔をしていた。
「…うん、鎌谷君の言う通りだよ、ついカッとなっちゃって、最低だよね」
秋山さんは苦笑いを浮かべた。
けど、その苦笑いは自分を責めるみたいで、どこか胸がチクっとする。
「最低だとは思うけど…」
「……?」
「でも、ちゃんと自分でそう言えるなら…それはもう、少し違うんじゃないの」
「……へぇ」
秋山さんはじっと僕を見つめる。
どこか、不思議そうに――けどほんの少しだけ、嬉しそうに。
「…ねぇ、鎌谷君」
「はい?」
「そうやって、私に文句言ったり、叱ったりしてくれる人ってさ…なんか新鮮」
「…新鮮って」
「うん、だから……これからも、いっぱい文句言ってよ?私、鎌谷君には反論出来ないよ」
にこっと笑った顔は、残念なくらい子供っぽかった。
「怖いから…もう関わりたくないです…」
僕はため息交じりにそう告げ、少し後ろに下がり、距離を取った。
「えっ……」
秋山さんが一瞬フリーズする。
そして――。
「!?」
「嫌…嫌だぁ…!!反省するから〜!何でも言う事聞くから〜!!!!」
秋山さんの目からダラダラと水が溢れ出す。
サァーーー
今までのイメージが粉になって舞っていく音が聞こえてきた。
「はぁ!?いや、でも…無理だもん、もう、本当今日はありがとう」
慌てて頭を下げて、背を向けて歩き出そうとする僕。
「嫌だ〜!!」
ドンッ!背中に衝撃。
……また突撃した?今!?
「昔の話したじゃん!言いふらすんでしょ!?やだああぁ〜!!!!」
「いや、言わないから!もう秋山さんのことは一切合切忘れるよ、うん…大丈夫です…」
秋山さんはその場にしゃがみ込み、僕の足にしがみついてきた。
もう、顔びしょびしょじゃん…。
「やだぁ〜!!忘れられるのも嫌ぁ〜!!捨てないでぇ〜!!」
「ちょっ…声デカい!あんまり大きな声でそんな事叫ぶと誤解されるから静かにして!」
「誤解じゃないじゃん!捨てるんじゃん〜嫌だ〜!!」
通りすがりのおばさんがチラチラ見てきてる。
僕が泣かせてるようにしか見えない!
「ちょっ…本当静かにして…!」
「嫌だ…嫌だぁ…!」
波が収まった、少しだけ声量が下がった、構図は最悪だけど。
「ちょっ…立ってよ…」
しかし彼女はその場にへにゃっと座っている。
「…さっき何でも言う事聞くって言ってたよね…?聞いてくれないんだ…?」
「ぐすっ…」
鼻を啜りながらゆっくりと立ち上がる。
何でも言う事聞く、魔法の言葉だ。
「…もう一つ言う事聞いてもらおうかな」
「……何……?」
秋山さんは声にならない声だ。
「今後は僕じゃない人に優しさを向けてね、僕は…もう、大丈夫だから、だからーーー」
「やだぁあああ!!!!」
再び座り込み、僕のズボンに縋り付いてくる。
「ちょっ…約束が違う!?もういいから離れてってば…!もう、単純に声が大きいから…!」
「嫌だ…絶対嫌だ…!鎌谷君しかいないの!置いてかないで…!」
「僕は秋山さんの保護者でも彼氏でもなんでもないんだけど!?」
「彼氏になってくれればいいじゃん〜!!」
「言ってる意味が分からないよ!!」
完全に駄々っ子モード。
通行人の視線が痛い。さっきのおばさんに加え、ジョギング中のお兄さんまで足を止めてこっちを見てる。
「ほら、皆見てるから、静かにして…!」
「捨てないでえぇーー!!」
「……あの、彼女さん泣かせちゃダメだよ」
お兄さんが真顔で説教してきた。
「いや違います!彼女じゃないです!!マトモに関わったのが今日初めてで…」
「ひどい〜〜!!」
更に泣き声が大きくなる。
……ダメだ、完全に僕が悪者だ。
「あー…もう、分かったから、分かったから泣き止んで…」
ピタリと秋山さんの動きが止まった。
「ぐすっ…何が、分かったの……??」
いや、僕も分かんないけど…。
秋山さんの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
……あれ?もしかして僕、詰んでる?
「えーと…分かったのは…とりあえず今泣き止まないと僕が社会的に死ぬってこと」
「……え?」
「だから泣き止んで!お願いだから!!」
「……じゃあ、捨てない?」
拾った覚えもないんだけど…どちらかと言ったら僕が拾われているんだけど…。
「……もう分かった、捨てないから、ね?だから一旦立って……」
「ほんとにぃ!??」
「本当本当!だからマジで静かにして!そろそろ通報される!!」
必死で手を差し伸べると、秋山さんは子供みたいに僕の手をぎゅっと握って立ち上がった。
「えへへ……やっぱり鎌谷君優しい」
「いやもう、優しいとかじゃなくて自衛だから……」
泣き落としって立派な脅迫だよね?
「じゃあこのまま手、繋いで帰ろ?」
「はぁ!?無理無理無理!そんな急展開…」
「…やだぁ〜〜!!」
再び座り込みの気配。
僕はハッキリと思った。
バカなんじゃないの、この人。
「わ、分かった!!分かったから!ちょっとだけね!?」
本当に脅迫じゃん…。
「……やった♡」
にっこり笑った顔は――涙と鼻水で全然可愛く………
可愛いな。
秋山さんは涙やらでびしょびしょの手で僕の手を握った。
(汚いなぁ…)
何この展開、美女と手を繋ぐのがこんなに嬉しくない事ってあるんだ?その事に驚きを隠せない。
「あの、秋山さん」
「何〜??」
何で上機嫌なんだろう。
「…僕達、マトモに関わったのは今日初めてだよね…?」
「そうだっけ?前から少しだけ話はしてたでしょ?」
「だから!マトモに関わったのは今日初めてでしょ?」
「そう…かな?」
そうかな?じゃなくてそうなの!!!!
「そんな相手とよく手をつなげるね?」
僕の問いかけに、秋山さんはちょっと考えたふうに首をかしげ――すぐに、にへっと笑った。
「……今日が初日だからこそ、特別なんじゃん?」
「いや逆でしょ!?普通はまだ早いってなるでしょ!?」
「えぇ〜?ここから始まるってことじゃん」
「いや、だからそのスピード感おかしいんだって!」
秋山さんは僕の手をぎゅっと握り直す。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃなのに、どこか誇らしげに。
「速度なんて関係ない!…これもう一生の思い出でしょ♡」
「……」
こんなのただのトラウマだよ…。
カツアゲされそうになったのを助けてくれたヒーローだって思ってた人が僕の血液に興奮するし、ブチキレるし、顔中びしょびしょで泣き喚くし、こんな話、誰に言っても信じてもらえないよ…。
ヤカラに返り討ちにされたのだって今思えば完全に殴られ損じゃん…。
あーあー、嫌だなぁ…。
「あの、秋山さん、これはこれで周りの目が嫌なんだけど…クラスの人に見られたらどうするのさ…」
「…嫌?嫌って言った…??」
「……うわっ…」
ヤバい、また目に潤いが…
もーー…何回泣くんだよこの人〜〜……。
「ちょ、ちょっと待って!そういう意味じゃなくて!いや、意味としては嫌だけど!」
「やっぱり嫌なんだぁ……」
声がどんどん掠れていく。
また、座り込みそうな雰囲気。
(……地獄かよ)
「だからっ!嫌なのは“人目がある状況”の話であって、秋山さんが嫌とかじゃなくて!」
「……ほんと?」
潤んだ目で見上げてくる。
ぐずぐずなのに、なんでそんな顔するの。
「……ほ、ほんと!だから泣かないで」
「……へへっ」
ちょっとだけ笑う。
その笑顔に、やられる。……いや、やられちゃダメだろ僕。
ずっと手を繋いだまま。
途中すれ違った近所の人にジロジロ見られて、その度に胃が痛くなった。
でも秋山さんは、子供みたいにずっと笑っていた。
泣き顔でぐしゃぐしゃだったのに、まるでそれすら忘れたみたいに。
――なんなんだろうな、この人。
結局、そのまま家まで一緒に歩いて帰った。
訳が分からない。
でも、振り回されっぱなしの一日だったのは間違いない。