表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/34

第八話 誰の代わりでもなく

 冬は長かった。

 栃木の山間の風は骨の髄に染みたが、それよりも寒かったのは、家の中だった。


 勝利のいないこの家に、暖を入れることは難しい。兄の不在がこんなに堪えるなんて、思いもしなかった。戦火はますます激化し、国から与えられる物資は日に日に少なくなっていく。

 囲炉裏の火は弱く、米も薪も限られていた。


 けれど、弘司は泣きながらも、生きていた。

 マサ子は歯を食いしばって、日々の仕事を必死にこなしていた。


 ——その姿を見るたび、胸が痛んだ。


 


(兄貴は……もういない)


 何度、自分に言い聞かせても、ふいに玄関から兄が入ってくる気がしていた。

 「ただいま」と言って、いつものあの調子で笑いながら。


 ——もう、その笑い声は戻らない。


 


 勝利の戦死通知が届いたとき、清は声をあげなかった。

 代わりに、家の裏でひとり、岩に拳を叩きつけた。

 拳が裂けて、血が滲んだ。けれど、その痛みだけが、まだ「生きている」証のように思えた。


 


(兄貴……俺、どうすればいい)


 問いかけたところで、返ってくる声はなかった。

 けれど、その問いは、ずっと胸の奥で残り続けた。


 


 弘司は、最初はなつかなかった。

 勝利に似た顔をしていたからか、マサ子もまた、清と視線を合わせることは少なかった。


 だが、ある夜。

 マサ子が珍しく熱を出したとき、ほとんど朦朧とした意識の中、清を素直に頼ってきた。


「お願い……弘司を、少し見てて……」


 清は言葉もなく、弘司を背負って、薬草を探しに外へ出た。

 吹雪のなか、道も分からなくなるほどの白。

 でも、胸の中はやけに静かだった。


 


 帰ってきて、囲炉裏の火をつけ、湯を沸かし、マサ子の額を冷やした。

 マサ子は布団の中で、何も言わず、ただその手元を見ていた。


「清さん、ありがとう。弘司も喜ぶよ」


 そのとき、初めて彼女がそう言った。

 その一言が清の心の奥に、強い決意の火を灯した。


 


 ——この子を、守り育てる。


 それが、自分の役目なのかもしれない。

 いや、兄の代わりとしてじゃない。

 弘司にとって、「父」として。


 


 それからというもの、弘司の小さな靴を直し、薪を割り、畑を手伝い、布団の綿を縫い直した。

 何でもした。

 清にできることなど限られていたが、それでも毎日、何かをすることが清の心を奮い立たせた。


 


 ある日、弘司がとことこと歩いてきて、もじもじとしながら言った。


「きよし、おとうさん?」


 清は一瞬、言葉が出なかった。

 けれど、すぐに膝をついて、目線を合わせるとしっかりと頷く。


「……そうだな。俺が、父親になる」


 その瞬間、なぜか涙が出た。

 胸の奥に溜めこんでいた何かが、音を立てて崩れていった。


 


 その夜。

 囲炉裏のそばで、マサ子に言った。


「……俺が、この子の父親になる」


 マサ子は黙っていた。

 目を伏せたまま、何も言わなかった。


 それでも、否定されなかった。


 ——それだけで、清には十分だった。


 


 弘司というこの大切な命を守る。

 マサ子を、支える。

 誰の代わりでもなく、自分の意志で。


 


 清の手は、もう震えていなかった。

 冬の冷たさにも、痛みにも、もう迷うことはなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ