第八話 誰の代わりでもなく
冬は長かった。
栃木の山間の風は骨の髄に染みたが、それよりも寒かったのは、家の中だった。
勝利のいないこの家に、暖を入れることは難しい。兄の不在がこんなに堪えるなんて、思いもしなかった。戦火はますます激化し、国から与えられる物資は日に日に少なくなっていく。
囲炉裏の火は弱く、米も薪も限られていた。
けれど、弘司は泣きながらも、生きていた。
マサ子は歯を食いしばって、日々の仕事を必死にこなしていた。
——その姿を見るたび、胸が痛んだ。
(兄貴は……もういない)
何度、自分に言い聞かせても、ふいに玄関から兄が入ってくる気がしていた。
「ただいま」と言って、いつものあの調子で笑いながら。
——もう、その笑い声は戻らない。
勝利の戦死通知が届いたとき、清は声をあげなかった。
代わりに、家の裏でひとり、岩に拳を叩きつけた。
拳が裂けて、血が滲んだ。けれど、その痛みだけが、まだ「生きている」証のように思えた。
(兄貴……俺、どうすればいい)
問いかけたところで、返ってくる声はなかった。
けれど、その問いは、ずっと胸の奥で残り続けた。
弘司は、最初はなつかなかった。
勝利に似た顔をしていたからか、マサ子もまた、清と視線を合わせることは少なかった。
だが、ある夜。
マサ子が珍しく熱を出したとき、ほとんど朦朧とした意識の中、清を素直に頼ってきた。
「お願い……弘司を、少し見てて……」
清は言葉もなく、弘司を背負って、薬草を探しに外へ出た。
吹雪のなか、道も分からなくなるほどの白。
でも、胸の中はやけに静かだった。
帰ってきて、囲炉裏の火をつけ、湯を沸かし、マサ子の額を冷やした。
マサ子は布団の中で、何も言わず、ただその手元を見ていた。
「清さん、ありがとう。弘司も喜ぶよ」
そのとき、初めて彼女がそう言った。
その一言が清の心の奥に、強い決意の火を灯した。
——この子を、守り育てる。
それが、自分の役目なのかもしれない。
いや、兄の代わりとしてじゃない。
弘司にとって、「父」として。
それからというもの、弘司の小さな靴を直し、薪を割り、畑を手伝い、布団の綿を縫い直した。
何でもした。
清にできることなど限られていたが、それでも毎日、何かをすることが清の心を奮い立たせた。
ある日、弘司がとことこと歩いてきて、もじもじとしながら言った。
「きよし、おとうさん?」
清は一瞬、言葉が出なかった。
けれど、すぐに膝をついて、目線を合わせるとしっかりと頷く。
「……そうだな。俺が、父親になる」
その瞬間、なぜか涙が出た。
胸の奥に溜めこんでいた何かが、音を立てて崩れていった。
その夜。
囲炉裏のそばで、マサ子に言った。
「……俺が、この子の父親になる」
マサ子は黙っていた。
目を伏せたまま、何も言わなかった。
それでも、否定されなかった。
——それだけで、清には十分だった。
弘司というこの大切な命を守る。
マサ子を、支える。
誰の代わりでもなく、自分の意志で。
清の手は、もう震えていなかった。
冬の冷たさにも、痛みにも、もう迷うことはなかった。