第七話 この子のために
空が赤く染まった夜を、マサ子は今でも忘れられない。
家が揺れるほどの爆音。遠くで誰かが叫ぶ声。
抱きしめた弘司の小さな身体が、爆撃の後に起きた火事の火に照らされていた。
それが夢だったのか、現実だったのか、もうよくわからない。
勝利が戦死したという知らせを受けてから、もう何日経ったのか。
日付の感覚も、季節の移ろいも、すべて曖昧だった。
ただ、その空襲の後、清が懸命な表情でマサ子の手を引いて、逃げるように汽車に乗ったときの冷たい空気だけは、今もはっきりと覚えている。
(ここを出なければ、弘司まで失ってしまう)
行き先は、栃木だった。
伯母の妹、静江が嫁いだ先の農家で、疎開者を受け入れてくれるという。
わずかな日用品と、母子二人分の着替え、そして勝利の遺影だけを持って、マサ子は清に伴われ上野駅を後にした。
疎開先の家は、土間と囲炉裏のある、昔ながらの田舎の家だった。
夜になると電気は弱々しく、蛍光灯の代わりにランプの明かりが揺れている。
「マサちゃん、大変だったねえ……。でも、ここで少しでも楽になればいいよ」
静江は、夫を失い幼い子を抱えたマサ子にとても優しかった。
けれど、マサ子はどうしても笑顔を取り戻せなかった。
「楽なんて……どこにもないですよ。弘司が……生きてるだけで、必死です」
夜中、弘司が泣くたび、マサ子の手は震えた。あの赤く染まった日のことを度々思い出してしまい、悪夢を見るようになっていた。
ときどき、布団の隅でこちらを心配そうにうかがい、寄り添うようにそっと座る清の影を見ることもあった。
「……代わろうか」
弘司の寝かしつけに苦労するマサ子を見るたび、そう声をかけてくれる清に、マサ子は何度も「すみません」と頭を下げた。
優しさを拒むたび、小さな罪悪感が大きくなっていく。でも、それでも、清はずっとマサ子のすぐ近くにいてくれた。
ある晩、囲炉裏の火が消えかけた頃。
弘司を寝かしつけていたマサ子に、清がぽつりと呟いた。
「この子、兄貴の目に似てるな」
マサ子は黙ってうなずいた。
「でも、笑い方は……あんたに似てる」
そう言われて、思わず顔を背けた。
涙がこぼれそうだった。
(やめて。そんなふうに優しくしないで……)
マサ子の胸の奥には、ずっと言えない感情があった。
勝利の弟として、これまでずっと清を見てきた。
頼りなく病弱だった少年が、いつしか家族を支える逞しい若者に成長し、辛い時はいつも黙って隣にいてくれる。
だが、いまその背に頼ってしまえば、きっともう後戻りできなくなる気がしていた。
それでも——
清が囲炉裏のそばで、弘司の小さな靴を直していたその夜。
マサ子は、知らぬうちに彼の姿に見入っていた。
指が、煤に汚れていた。
手はひび割れて、火傷の跡もあった。
でも、その手は確かに、自分と浩を支えてくれていた。
(私は……この人に、守られているんだわ)
雪が降り始めた朝。
弘司が、無邪気に笑った。
「おかあ……」
まだ舌足らずな声。けれど、確かに“おかあさん”と呼んだ。
その一言で、マサ子の心に何かが灯った。
もう、泣いてばかりはいられない。
勝利が見られなかったこの子の未来に、私が光を点さなければならない。
雪の朝、隣で黙って雪かきをする清の背を見ながら、マサ子はそっと思った。
(まだ言えない。だけど、いつか——)
この冬を越えて、また春が来ることを、その日初めて少しだけ信じられた。