第六話 それでも朝は来る
雪は止んでいた。
けれど、風は冷たく、空気は凍りついていた。
その日、玄関に立っていたのは、一人の役場の職員だった。軍服でもなければ、知った顔でもない。
職員はマサ子に、とても事務的な態度でその手紙を渡した。
マサ子はその瞬間、すべてを悟った。
「山中勝利殿、昭和二十年三月三日、ビルマにて戦死——」
それ以上、言葉は耳に入らなかった。
腕に抱いていた浩が、かすかに動くのを感じる。その鼓動と息遣いだけが、マサ子にとって現実だった。
(今、あなたの子が、この腕の中にいるのに)
(……あなたは、知らないまま、逝ってしまったの)
手渡された紙切れは、まるで別世界のもののようだった。
白く冷たい封筒に、整った筆字。
「戦死通知」という、あまりに重たい無情な文字。
勝利という、マサ子にとって何よりも変え難い命は、その紙切れ一枚で終わりを告げた。
勝利の背中を見送ったあの別れの時、マサ子は生きて帰って来てくれることを願いながらも、心のどこかで、もう会えないのだろうと諦めてもいた。
ーーでも、今。
胸が抉られるような絶望を感じながら、なぜか他人事のような、現実ではないような、そんなふわふわとした曖昧な感覚をマサ子は味わっていた。
「マサちゃん……」
しげが何かを言いかけたが、マサ子はそっと弘司を背負って、ふらりと庭に出た。
風が頬を打ち、知らず流れていた涙は凍りそうだった。寒さは感じなかった。
アトリエの隅には、未完成のキャンバスがその日のまま残されている。
あの日——出征前、勝利が「これから描きたい」と言っていた風景だった。
自分と、子どもと、春の桜。
その絵は、輪郭だけが描かれ、まだ色は乗せられていなかった。
「……なんで……先に逝くの……」
誰にも届かない言葉が、吐き出され零れ落ちる。
思わず口にしたその一言が引き金のようになって、マサ子の身体は崩れ落ち、その場に座り込んだ。
泣いてはいけない、と思った。
でも、泣かずにはいられなかった。
弘司の命が、彼の命の代わりなのだと思っても、受け止めきれなかった。
涙でぐちゃぐちゃな顔のまま部屋に戻ると、戸の影に清が静かに佇んでいた。
「……弘司、泣いてるぞ」
「ごめんなさい、ちょっと……外にいたから、冷えてしまったのかもしれません」
「……手、貸そうか」
マサ子は耐えきれず、泣き止まない弘司を清に預けた。清は何も聞かず、ただ弘司をそっと抱き止めてくれた。
清の腕の中で、弘司はまだ泣いていた。
その晩、マサ子は布団のなかで体を丸くし、ずっと体を震わせ続けた。布団にくるまっているのに、心の芯から凍えるような孤独の寒さを感じていた。
身体が重く、目を開けるたびに涙がにじんだ。
勝利がいない。
それはただの“不在”ではなく、この世から自分の命よりも大切なものが消え、世界が崩れるような感覚だった。
けれど、それでも、自分は、弘司は生きている。
泣いて、動いて、息をしている。
二人を繋ぐ命が、ここにあり、それはマサ子にとってたったひとつの、小さな希望でもあった。