第五話 広い空の下で
しげや勝利が予想していた通り、赤紙は程なくして勝利の元に届いてしまった。
結婚生活は一年も続かず、やがて訪れた出征の日の朝、マサ子は味噌汁の味も分からず、食欲も全く湧かなかった。
お椀の中の湯気がぼんやりと揺れていて、胸の奥で小さく波打つような吐き気を感じる。
「無理するな。顔が青いぞ」
勝利が優しく声をかけてきた。
マサ子は慌てて台所の隅に立ち、ふくらんできたお腹を隠すようにして頭を下げる。
「大丈夫です。すみません……」
「なんで謝るんだ。むしろ……ありがとう」
勝利はそう言って、彼女の横にしゃがみこむと、火鉢の灰に小枝で何かを描いた。
花のような形だった。それを見て、マサ子は思わず笑った。
「桜……?」
「うん。いつか君と産まれた子どもと一緒に見られるかな、と思ってさ」
その言葉に、マサ子の指先がふるえた。平和な時代が来て、三人でお花見をする未来。勝利の思い描く美しい“いつか”は、今、あまりにも遠い。
勝利は立ち上がり、表情を引き締めて、軍服の裾を整えた。
軍帽の下の横顔は、すでに戦いに赴く者のそれで、勝利がどこか遠くにいるように見えた。
「マサ子。……絶対に、無事に産んでくれ」
「……はい」
「俺は……たとえ離れてても、毎日、お腹に手を当ててる気でいるから。
君と子どもが笑ってるのを、どこにいても、何度も思い描いてみせる」
その声は、震えていた。
けれど、涙を見せることはなかった。
別れる最後の瞬間まで、夫として、父として、弱音を吐くことは一度もなかった。
汽車の汽笛が鳴った。
勝利はマサ子にいつまでも手を振り、戦地へと赴いていく。
マサ子は、それを見送りながら何も言えなかった。ただ胸の中で叫んでいた。
(この子が生まれるまで、生きていて。どうか、お願い——)
その日から、勝利のいない暮らしが始まった。
屋根裏のアトリエにあった絵の具は、少しずつ乾きはじめていた。
彼が使っていた筆、途中まで塗られた風景画。
その一つひとつに触れるたびに、胸がずきりと痛んだ。
日々は静かに過ぎていく。
けれど、戦況は日に日に悪化していた。
―――
その晩秋の日。風の強い夜に、マサ子は産気づいた。
屋根を打つ嵐の音が怖かった。
身を寄せ合って眠っていた義姉のしげが何度も手を握ってくれたが、身体の震えは止まらなかった。
痛みが腹の奥から何度も波のように襲ってくる。
そのたびに、勝利の姿が脳裏に浮かんだ。
(勝利さん、今……どこにいるの?)
(私……ちゃんと母親になれる?)
布団の上で、マサ子は息を詰め、何度も歯を食いしばった。
うめき声を漏らすたび、しげが背中をさすってくれる。
「大丈夫、マサちゃん、大丈夫。あんたと勝利の子よ。きっと元気に出てくる」
もう何時間が経ったかわからない。いきむ元気もなくなりかけていて、マサ子はただ、勝利の笑顔だけを思い浮かべていた。
朝日が差し込むころ、ようやく…ようやく赤ちゃんが産声を上げた。
「……生まれたよ、男の子だよ!」
しげがそう言って、ぐしゃぐしゃの顔で笑った。
マサ子は、力の入らない手でその小さな命を受け取った。
ぐずぐずと泣く顔は、確かに自分と勝利の面影が混ざっていた。
「……ひろし。弘司、って、名前……」
「弘司? そう、いい名前ね」
「“ひろし”……強く、優しく……春の日のあたたかい大きな空のような…」
その瞬間、胸が詰まり、マサ子は声をあげて咽び泣いた。子供が産まれた感動と共に、深い悲しみがマサ子を襲う。
今この瞬間、勝利に隣にいてほしかった。
勝利に、この子を抱かせたかった。
笑って、「俺に似てるな」と、あの優しい声で言ってほしかった。
だけど、今隣にあるのは産声だけ。
その夜、マサ子は布団の中で弘司を抱いたまま眠った。
冷えきった部屋の中で、小さな体は不思議なくらい温かかった。
それが、この世界に自分をつなぎとめる、たったひとつの命綱に感じるのだった。
——まだ、勝利からの手紙は一通も届かない。
けれどマサ子は、信じていた。
「きっと、どこかでこの子の産声を聞いてくれている」と。
信じることしか、マサ子にはできなかった。