第四話 言葉だけでも
その日、珍しく勝利は絵を描いていなかった。
筆にも、パレットにも触れず、庭の木の下でじっと空を見上げていた。秋が深まり、柿の実が色づきはじめる季節。
マサ子が18歳になろうとしていたその年、戦火は確実に広がっていて、近所でも毎日のように男性たちが戦地へと赴く時の歓声があがっていた。その時も、ほど近くで万歳万歳という声が響いていて、マサ子は洗濯物を干す手を止めた。
静かにその声を聞いていた勝利の背中が、いつもより少しだけ遠くに感じる。
「……絵、描かないんですか?」
勝利は振り返らず、ただ答えた。
「描きたい風景が、あまりにも遠いと……手が止まることがあるんだ」
その声に、普段の朗らかさはなかった。
その夜。マサ子は茶碗を拭きながら、しげの何気ない言葉に手を止めた。
「勝利……来月には“あれ”があるかもしれないって。内々に言われたみたい」
“あれ”というのは他でもない、召集令状のことだった。いよいよその日が来てしまう。
マサ子は無言で、布巾をぎゅっと握った。
それから数日後。
縁側に干された軍用ズボンを見たとき、マサ子の胸はひどく締め付けられた。
(戦争に行くんだ……この人も)
わかっていたつもりだった。
でも、実際にその現実がすぐそこにあると知ると、冷たい何かが心に差し込んでくる。
その晩。
勝利がマサ子を呼び止めた。
「ちょっと、来てくれないか」
勝利の手には、木箱があった。中に入っていたのは、一冊のスケッチ帳だった。
「これは……」
「君を描いたんだ」
ページをめくると、そこにはいくつものマサ子の姿があった。
井戸端で微笑む横顔、洗濯物を干す後ろ姿、縁側でうたた寝する寝顔……どれも、優しい筆づかいで描かれていた。
「俺は……戦地に行くことになると思う。
生きて帰れる保証はどこにもない。でも、だからこそ——言わなきゃいけないと思った」
勝利の手は、かすかに震えていた。
けれど、その声はまっすぐにマサ子に響いた。
「マサ子。……結婚してくれないか」
マサ子は息を呑む。
目の前の青年は、戦争のこと、未来の不確かさをすべて分かった上で、それでもマサ子の手を取ろうとしていた。
「……私なんかで、いいんですか?」
「“私なんか”って言葉は君には似合わない。
俺は、君のように強くて静かな光を持った人と生きたい。たとえ、それが……短い時間だとしても」
マサ子は泣いていた。
声も出ないほどに、こみ上げる想いが胸をいっぱいにしていた。
プロポーズを受けたその夜。
マサ子は縁側で静かに佇む清の姿を不意に見つけた。
彼は黙って、夜空を見上げている。
「清さん……」
「……よかったな。兄さんみたいな奴は、なかなかいねぇよ」
「……はい」
清の横顔は、静かだった。
けれど、その静けさの奥には、きっと多くの言葉が沈んでいるに違いなかった。
昭和17年。戦争の足音が確実に近づいていたその日。
勝利とマサ子は、ささやかに婚姻を届け出た。
その直後、マサ子は新しい命を授かっていることを知る。
花嫁衣装も、指輪もなかった。
けれど、あの日交わされた言葉こそが、二人にとっての誓いだった。
やがて戦火が、すべてを飲み込んでゆく。
それでもマサ子は、生涯、あの言葉を忘れなかった。
「たとえ短い時間だとしても——」
その“たとえ”に、どれだけの覚悟と優しさが込められていたかをマサ子は忘れることなどできなかった。