第三話 淡い恋の色
マサ子がしげの家で奉公人として暮らし始めて三ヶ月が経った。
米のとぎ方、味噌汁の出汁の取り方、布団の干し方、障子の張り替え——鈴木家のやり方は何もかも初めてで、日々覚えることばかりだった。
「マサ、煮豆が焦げるよ。火ぃ見てなきゃ」
「は、はいっ、すみません……!」
しげの小言にはもう慣れてしまった。いや、慣れたふりをしているだけかもしれない。
それでも、マサ子は「ここでは迷惑をかけたくない」と、毎朝誰よりも早く起きて、誰よりも遅くまで手を動かした。
ある日、土間の掃除をしていたマサ子に、声がかかった。
「おい、そこの雪ん子」
振り向くと、勝利が縁側で腕を組んでふらりと立っていた。
濃紺の着流しに、からかうような含みのある眼差し。勝利からは油絵の具の独特な匂いがわずかに漂っている。
「兄さん、マサをいじめるのやめなよ」
奥から、清の咳交じりの声が飛んできたが、それを無視して、勝利はにやりと笑った。
「いじめてなんかないさ。絵の道具を洗ってほしくてね。マサなら丁寧にやってくれそうだ」
マサ子は少し困ったようにうなずいて、道具を受け取った。筆が数本と、色ガラスの瓶、絵の具まみれのパレット。
勝利の背後には描きかけの絵が立てかけてあり、その細かな筆致は、絵に造詣のないマサ子にも理解できる素晴らしさだった。
「これ……とても繊細ですね。筆も、細くて……」
「お、気づいたかい? そうなんだ。髪の毛一本を表現するために線を引くこともある。油絵ってのは根気がいるんだ」
その日から、マサ子はときおり、勝利の絵の手入れを任されるようになった。
ある晩、勝利が珍しく台所の勝手口に立っていた。手に、完成したばかりの油絵を持って。
「……見せてもいいか?」
マサ子は一瞬迷ったが、こくりとうなずいた。
描かれていたのは、庭の木の下に佇む子ども。どこか寂しげで、けれど光の中に包まれている。
「……きれい、です……」
「君を思って描いたんだ」
マサ子は思わず顔を上げた。
「……え?」
「ごめん、驚かせたかな。でも、最初から思ってたんだ。君は……光が似合う。静かで、でも強い光だ」
胸が熱くなった。
誰かにそんな風に言われたことは一度もなかった。
それから、勝利の帰宅が待ち遠しいと思う日が増えていった。
声を交わすだけで、頬が熱くなるのを、マサ子自身がいちばん驚いていた。
一方、清は二人の関係が少しずつ変化していることに気づいていた。
夕暮れの縁側。清は掻き立てられるように手帳に何かを描いていた。
水彩のやわらかな筆致で、街の屋根と空を写している。
「清さんも、絵をお描きになるんですか?」
「ああ。たいしたもんじゃない。兄さんみたいに華やかな絵は描けねえから」
「そんな。清さんの絵、私は……すごく、好きです」
清は一瞬、描く筆を止めた。
けれど、すぐに目を逸らし、笑ったような顔をした。
「ありがと。でも、俺には……君が見たい風景を、見せてやることはできない」
それは、自分の身体のことが負い目で言ったわけではなかった。
兄のような言葉も、未来も、背負える強さも、自分にはないと清はわかっていた。
けれど心の奥にはずっと、感じたことのない熱い感情がくすぶっている。
勝利の隣に並ぶマサ子を見るたびに、それは静かに、痛みを伴って揺れた。
「兄さんのことが、好きか?」
別の日の夜、清はぽつりと尋ねた。
マサ子は黙ってうつむき、そっと頷いた。
「……私なんかが迷惑ですよね。でも……」
「……いや、そんなことはない。応援するよ」
清はそれ以上、何も言わなかった。
それが、清が唯一できた“兄への誠意”だったから。
夜の庭に、雨がしとしとと降っていた。
誰の心にも、まだ言葉にできない想いが静かに芽吹き始めていた。