第三十話 雪をこえて、春
潮風は、まだほんの少し冬の冷たさを残していたが、どこか柔らかい。春は確実に訪れていた。
弘司はゆっくりと母の位牌を抱き直し、和子の方へ目をやった。妹の肩に、小さな二人の娘が抱きついている。
「ねぇ、叔父ちゃん」
「なんだ?」
「おばあちゃん、天国で笑ってるかな?」
「笑ってるさ」
弘司は即答した。
少しも迷いのない声だった。
「おばあちゃんはな、すごく強い人だったんだ。でも優しくて、怖がりで、泣き虫で。だから……おじいちゃんたちがきっと守ってる」
娘たちは顔を見合わせ、にこりと笑った。
墓前に三人の写真を並べ、弘司と和子、そして孫たちが手を合わせる。
勝利の凛とした横顔。
清の温かく包み込むような笑顔。
マサ子の、少し控えめで穏やかな表情。
和子は小さく呟く。
「お母さん、ずっと寂しかったよね」
「……俺たちも、もっとちゃんと支えてやればよかった」
弘司が深く頭を垂れた。
「でもね」
和子が顔を上げた。
「私、お母さんの気持ちが少しだけわかる気がするの」
「え?」
「家族を持って、自分が親になって……わかったの。人は強いようで弱い。でも弱いからこそ、共に支え、大事にする気持ちが生まれるのよ」
弘司は和子を見つめた。
妹はもう立派に母親の顔になっていた。
夕暮れ、家に戻ると清の描いた水彩画が光を浴びていた。
「雪をこえて、春」と題されたその絵には、新潟の白い世界から、淡い桜色に変わる田畑の風景が描かれていた。
弘司はその絵に吸い込まれるように、動きを止め、絵に魅入る。
(父さん……)
あの人は最後まで働き抜き、家族を守り抜いた。
そして母もまた、自分の命を削りながらこの家族を守った。
(俺が……今度は守る番だ)
弘司はそっと自分の手を握りしめる。
近くで和子の子供たちが、楽しそうに絵を描きながら話していた。
「おじいちゃんみたいに……なれるかな」
「なれるよ!」
二人の声は、春の風のように軽やかだった。
その夜。
和子は縁側に座り、月を見上げた。弘司は帳簿を広げて、何か書き付けをしている。
隣には娘たちがすやすやと眠っていて、とても静かな、平和な夜だった。
遠く、潮騒が聞こえた。
その音に混じって、父の声が聞こえた気がした。
——和子
——ありがとうな
一瞬、涙が溢れそうになったが、和子は微笑んだ。
「ううん、私の方こそ」
その横顔は、かつてマサ子が清を見つめたときと同じ、穏やかな光を宿していた。
「どうした?」
弘司が和子の声に気づき、声をかける。和子は仏間に並ぶ父の水彩画と、勝利の描きかけの油絵を見つめていて、弘司も同じように絵を見つめた。
二つの絵の筆致は違えど、描かれているのはとても似た風景だった。
そこには雪が消えつつある景色の中に、ふわりとした春の空気が描かれている。
その中に、小さな親子三人の後ろ姿があった。
男。
女。
そして男の子。
「父さん……母さん……」
弘司は目を閉じて呟いた。
(あなたたちが繋いだものは、こうして今ここにある)
⸻
夜空に雪が舞い、それが桜の花びらに変わる幻想が見えた。
どこかの雪原を歩く三人の背中。
勝利。
清。
マサ子。
三人は振り返り、微笑んだ。
「…雪をこえて、春がきたよ」
潮風が吹き抜ける。
その声は、光に包まれた桜の花びらと共に、やがて夜空へ消えていった。
了
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