第二十九話 灯が消える日
潮風は冷たくも優しい。
しかしそれが、マサ子の胸の奥に吹き込むたび、彼女はひりひりと痛むような感覚に苛まれた。
夫がいない。
縁側の左隅に置かれた椅子は空のままで、朝の光を受けて白々と輝いている。
もう、そこに清が座ることはない。
「おーい、マサ子。お茶入れてくれるか」
低く朗らかな声が響くこともない。
マサ子は両手を膝の上に置き、白い指先がかすかに震えているのを見下ろしていた。
(清さん……)
頭の中では、あの人の大きな手、無骨な笑顔、少し猫背気味の後ろ姿が次々と浮かぶ。
そして同時に、勝利の凛とした軍服姿が重なり合う。
(なぜ私は、二人を失わねばならなかったの)
「母さん……晩ご飯食べよう」
弘司の声が、背後から届く。
「……いらないの」
低く呟くと、弘司は短く息を飲んだ。
いつか清が「弘司、お前が支えてやれ」と言った声が脳裏に蘇る。その言葉の重さを噛みしめるように、弘司は母の肩にそっと手を置いた。
「食べてくれ。母さんがいなくなったら……俺、どうしていいかわからない」
(この子は……清さんの代わりに、私を守っているつもりなのね)
けれど、マサ子の胸に生まれたのは、痛みと感謝がないまぜになった奇妙な苦しさだった。
(清さん。あなたがいるなら、弘司はまだ頼れたのに……)
「おばあちゃーん!」
庭先から、孫たちの高い声が響く。
小さな女の子二人が、野の花を摘んで戻ってきた。
「見て見て! お花いっぱい」
「おばあちゃんにあげる!」
「……ありがとう」
震える手で受け取った花は、細くて弱々しく茎が折れそうだった。それはまるで自分のように儚く見えた。
(この子たちは、私の血を継いでいるのね)
(勝利さんと、清さんと……その両方の命が、この小さな手に繋がっている)
ほんの一瞬、マサ子の唇がわずかに緩んだ。
けれど、すぐにまた硬く閉じる。
笑顔が続かない。
(私にはもう、笑う資格がない気がする……)
その夜、布団の中で天井を見上げた。
(あの日から、私はずっと独りなのかもしれない)
勝利がいなくなったあの日。
清が「俺が父親になる」と告げてくれたあの日。
一つひとつが鮮烈な痛みとなり、マサ子の胸の奥でまだ疼き続けている。
(勝利さん……清さん……)
その名前を繰り返すだけで、涙が溢れて止まらなかった。
不意に、障子の向こうから微かな光が漏れた。
「清さん……?」
震える声で呼びかける。
障子がゆらりと揺れ、影が現れる。
そこには、かつての勝利が再び軍服姿で立っていた。凛々しく、どこか寂しげな表情で。
その後ろに、作業着姿の清が静かに微笑んでいる。
「ありがとう、マサ子」
勝利が言った。
「俺も……ありがとう」
清が続ける。
「二人とも……。私は、あなたたちに守られてばかりだった。もっと、返したかった……もっと……。二人と幸せに生きたかった」
マサ子は涙をこぼしながら手を伸ばした。
けれど二人の姿は淡い光に溶け、白い雪のように消えていった。
「行かないで……」
小さく呟く声は、誰にも届かなかった。
冬の朝、マサ子は仏間に座っていた。
清が遺した水彩画が並ぶ棚を見つめる。
その中の一枚には、マサ子の故郷である新潟の雪景色を描いたものがあった。
(雪をこえて……春に辿り着けたのかしら)
その呟きを最後に、マサ子の身体はふっと前に傾いだ。清と勝利の遺影の前で、音もなく倒れ、意識が朦朧としていくのを感じた。
怖くはなかった。二人の優しい笑顔の写真に手を伸ばそうとして…そのまま全ての時が止まる。
頬を伝う涙が、畳の上に小さな水玉を作った。
そして、時が経ち、弘司と和子は母の遺影を抱えて、清と勝利、そしてマサ子の眠る墓前に立つ。
潮風が桜の枝を優しく揺らしていた。
「母さん、ありがとう」
「お母さん、もうゆっくり休んで…」
二人が目を閉じた時、遠くから微かな声が届いた気がした。
——ありがとう
——もう、寂しくないわ
潮風の向こうに、勝利と清、そしてマサ子が並んで微笑んでいる姿が見えるような気がした。
やがて三人は光の中に溶け、静かに、穏やかに春の空へと消えていった。




