第二十八話 父の最後
潮風が、開け放たれた窓から吹き込んだ。
午後の日差しは柔らかく、工場の壁に小さな影を落としている。
マサ子は台所に立ち、煮立つ鍋の音を聞きながら、ふと背中を丸めた。
(清さん……また咳き込んでいたわ)
町屋から千葉へ越して十数年、彼はずっと働きづめだった。戦後の焼け野原を必死に駆け抜けた背中は、今も力強く見える——けれど、それが少しずつ細くなっていることを、妻は誰よりも感じていた。
「ただいま」
工場から戻った清が玄関に立つ。マサ子は手を拭きながら出迎えた。
「おかえりなさい、清さん」
笑顔を向けると、清はわずかに口元を緩めた。
けれど、その笑みに疲労の影がにじむ。
(あの頃の勝利さんと似た目をしているわ)
戦争へ行く前、勝利が見せたあの遠い目。
そして——その勝利の死を経て、手を差し伸べてくれた清。
二人の兄弟が、マサ子の人生に刻んだ深い痕跡。
夜、遊びに来ていた孫娘たちが寝静まった後。
マサ子は清の隣で静かに布団に入り、震える声を押し殺して口を開いた。
「……清さん、私ね、今でも夢に見るの。勝利さんが笑って手を振る夢」
清は目を閉じたまま、微かに口元をほころばせた。
「……そうか」
「でも……目が覚めると必ず、あなたがそばにいてくれる。“それでいい”って、いつもあなたが守ってくれた」
「マサ子……」
清の手が、しわの増えた妻の頬に触れた。その手は少し冷たい。
(この手が、私をここまで導いてくれた)
翌日。
孫娘たちが縁側で遊んでいた。
「おじいちゃん! 絵を描いて!」
幼い声に呼ばれ、清はゆっくりと筆を取り上げた。
水彩絵具が紙に溶け、柔らかな色がにじんでいく。
二人の孫が手を取り合って笑う姿——その絵は、まるで未来へ贈る祈りのようだった。
「できたぞ」
「わあ、すごい!」
孫たちは瞳を輝かせる。
マサ子はその様子を、ただ黙って見つめていた。
(この笑顔を、どうか——清さんの笑顔を、消さないで)
夜、縁側に座ると潮風が頬を撫でた。隣に座る清の背中が、あまりにも小さく見えて、マサ子は小さく震える。
清がどこかへ行ってしまいそうな気がして、マサ子は清の手を取り、自分の頬に押し当てた。
「どんな時も、一緒に乗り越えてきたわ。これからも……」
「どうした、マサ子。心配するな。これからもふたりで…」
心の奥で小さな声がささやく。
(お願い……もう、私を一人にしないで)
勝利を戦争で失った日、荒れ狂う川のような悲しみと孤独が彼女を襲った。
再びその闇が迫っている気がして、胸が締め付けられた。
数日後、マサ子の悪い予感は的中してしまった。
仕事中に前触れもなく突然吐血した清を、弘司は慌てて病院に連れて行った。そして、二人は帰宅した。弘司は母の顔を見なかった。見れなかった。
「ただいま…。疲れたよ」
マサ子は夫の目を見て、すべてを悟った。
「清さん……」
「末期の、癌だとさ」
それだけ言い、清は淡々とした顔で座布団に腰を下ろした。
マサ子は喉が詰まり、声が出なかった。
(……癌、ですって…)
勝利の顔が突然浮かんでくる。戦争に取られた夫。そして死。戦後の荒波の中で清と支え合い、生き抜いてきた二人。
その時間さえ、引き潮のように去っていくのか。
「マサ子……俺はもう十分だ」
「…十分なんかじゃない」
涙が頬を伝い、マサ子は小さく首を振った。
「もっと一緒にいて。……清さん」
清は黙ったまま、妻の手を握り締めた。
その手は、あの日と同じだった。戦後、瓦礫の中で初めて差し伸べられた、あの温かな手そのままで、マサ子を慰めた。
数日後の夜。
孫娘が描いてくれた拙い絵が床の間に飾られていた。
「おじいちゃんが描いてくれたみたいに、私も描いたの」
幼い声に微笑みながら、清はゆっくりと筆を持ち、水彩紙を広げる。
そこには、二人の孫が仲良く手を繋ぐ姿が浮かび上がっていった。
柔らかな色が溶け合い、やがて一つの絵になった。
(……この絵を見て、いつか思い出してくれればいい)
清は内心でそう呟いた。
「おじいちゃん、これ、もらっていい?」
「もちろんだ。これは、お前たちへの贈り物だ」
孫たちが無邪気に笑う声を、マサ子は縁側で聴いていた。
(あぁ……この人は、絵に生きた人だった)
その夜、弘司が縁側に座り込む。父の告知を共に聞いてから、父に何を話せばいいのか思い悩んでいた。弘司の心には自分への不甲斐なさが渦巻いていた。
それを見て、清がそっと浩の肩に触れる。
「父さん……」
「弘司」
「俺がもっと早く、工場のことをどうにかしていれば……」
「馬鹿を言うな」
清は静かに息を吐いた。
「お前には、感謝しかない。あの日——兄貴の代わりに、父親になると決めたあの日から……俺はお前を息子としてだけでなく、仲間として見ていた」
弘司は黙ったまま、拳を握り締めた。
「これからはお前がこの家の柱だ。マサ子を、そしてみんなを頼む」
「……父さん」
潮風が二人の頬を撫で、ほのかな桜の匂いを運んだ。
⸻
夜が更けていく。
清は眠りにつくように目を閉じていた。疲れ果て、影を薄くする夫を不安げに見守りながら、マサ子は眠れずに障子を見上げる。
その時——
マサ子の瞳に、朧げな人影が映った。
(……勝利さん?)
障子にうつる懐かしい軍服姿の面影。そこに勝利が立っている。
かつて出征の日、見送った背中が、そこにあった。
「兄さん……」
清もまたそれに気づき、微かに声を絞り出す。
「すまない。あの時……俺が守ると言ったのに」
勝利は微笑んだ気がした。
「……ありがとう、清」
どこからか、そんな声が聞こえたような気がして、マサ子は胸の奥が熱くなり、伝う涙を静かに拭った。
数日後、春の気配が漂う朝。
清の呼吸は浅く、胸がわずかに上下するばかりだった。
マサ子は夫の手を握りしめ、耳元で囁いた。
「清さん……私、あなたがいなかったら、ここまで生きられなかった」
「……マサ子……」
「勝利さんを失って、あなたに救われた。あなたが私の春だった」
清の唇が微かに動く。
「……ありがとう」
それが、夫の最後の言葉だった。
小さな安堵の微笑みを浮かべながら、清は静かに、本当に静かに息をひきとった。マサ子は堪えきれず、夫の胸に顔を埋めて咽び泣いた。
(あなたは私を誰よりも強くしてくれた)
葬儀の日、マサ子は清の遺した水彩画を胸に抱きしめ、震える足で気丈に清を見送る。
その絵は、雪の中に立つ小さな家と、その前で笑い合う親子の姿——それは町屋の頃の絵だった。
(勝利さん、清さん……二人とも、私の人生のすべてだった)
涙が一滴、絵に落ちてにじむ。
けれどその色は、雪解けの水のように柔らかく、暖かかった。
潮風が頬を撫で、春の香りを微かに感じながらマサ子は呟いた。
「清さん……また春が来たわ」




