第二十七話 潮風の工場
潮風が工場の窓から入り込み、錆びた鉄の匂いを運んでくる。
清は古い工作機械に目を落とし、ゆっくりと指先で触れた。何度も修理して動かしてきた旋盤は、ぎい、と鈍い音を立てている。かつてはこの音が、仕事場の活気の象徴だった。
だが今は違う。
「父さん……また取引先から断りの連絡が入ったよ」
弘司が渋い顔で戻ってきた。作業服には細かい金属粉が付着している。
「海外の工場に発注した方が安い、と。……これで三件目だ」
「そうか」
清の声は低く、しかし驚きも怒りもなかった。ただ、潮風の中にひとり佇む木のように、静かだった。
千葉に移ってから十数年、清は町屋時代と同じように工場を営んできた。弘司と二人三脚で仕事をし、少しずつ信用を積み上げた。
しかし、時代は変わった。
高度経済成長の影で、外国からの安価な部品が流入し、中小の町工場はひとつ、またひとつと姿を消していった。
「……父さん、俺はもう少し営業回りをしてくる。新規の取引先が見つかるかもしれない」
弘司が重い声で言った。
清はしばらく黙った後、ゆっくりと頷いた。
「わかった。だが、あまり無理はするな」
弘司が出ていくと、工場には静寂が落ちた。
清は机に置かれた孫の絵を見つめる。
先日、初孫の七五三で撮った写真だ。着物姿の幼い姉妹が、はにかむように笑っている。
(この子たちが大きくなる頃、俺の工場はどうなっているだろう)
ふと、胸に鈍い痛みが走った。
(……最近、息切れがするな)
清は煙草を取り出しかけて、やめた。
夕暮れ、家に戻るとマサ子が夕飯の支度をしていた。
「おかえりなさい、清さん」
「ただいま」
食卓には、和子と修、そして孫娘二人が並んでいる。
「おじいちゃん!」
孫娘が駆け寄り、清の膝に飛び乗った。
「おっと……大きくなったな」
清は孫の柔らかな髪を撫でた。
食事の間、清はほとんど孫たちに視線を向けていた。和子が微笑む姿に、幼い頃の娘の面影を見て、胸が熱くなる。
「おじいちゃん、私に絵を描いて!」
孫娘が無邪気にせがんだ。
「……そうだな」
清は頷き、笑顔を見せた。
「次に来た時には、お前たちの絵を描いてやろう」
その声に、マサ子がそっと顔を上げる。
(……清さん、やっぱり少し痩せたわ)
夜、縁側で清はマサ子と並んで座った。
「工場……どうするの?」
マサ子が小さく尋ねる。
「……もう、潮時かもしれんな」
清の声は潮風にかき消されそうなほど小さかった。
「弘司は必死に頑張ってる。でも……俺の体力も、もう昔のようにはいかん」
「清さん……」
マサ子は夫の背に顔を伏せた。そこには、町屋で戦後を生き抜いた頃と変わらない、頑丈で寡黙な背中があった。
しかし、どこか影が差しているようにも見えた。
翌日、弘司は帰宅すると工場の明かりが消えていることに気づいた。
「父さん……?」
作業机の上には、淡い水彩の絵が置かれていた。
そこには、孫娘二人が笑顔で手を取り合っている姿が描かれている。
清の思いが、絵から優しく伝わってくる。
弘司はそっと絵を抱きしめた。
(父さんの気持ちは、俺が受け継ぐ……)
時代の荒波に揉まれながらも、家族の絆は静かに強まっていく。
潮風に吹かれる工場の中で、清は静かに自問していた。
(俺は、家族のために何を残せるだろうか)




