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第二十六話 孫の小さな手

 春の風が柔らかく吹く午後、和子は千葉の町を歩いていた。細い路地を抜けると、いつもの本屋が見える。その店の前に、修が立っていた。


「和子さん」

 声をかけられるたびに、胸が高鳴る。修は地主の家の息子で、背が高く細身。スーツに身を包み、香水の香りを漂わせる姿は、この古ぼけた田舎の町では異彩を放っていた。


「今日は、もう帰るの?」

「はい。お母さんが一人だから、早く帰らないと」


 修は穏やかに笑った。

「和子さんは本当に優しい。でも、もう少し自分のことも大切にしていいと思うな」


(私のことを、こんなふうに言ってくれる人は初めて……)


 和子は小さく笑みを返しながら、母と兄が待つ家へと急いだ。




 夕食の食卓では、父・清の厳しい視線が和子に向けられていた。


「和子、最近帰りが遅いことが多いな。何かあったのか」

「……別に。バイトが長引いただけ」


 母のマサ子が和やかに場を取り繕おうとしたが、清の目は鋭かった。

「お前ももう二十歳だ。家のことを後回しにするようじゃ困る」


(お父ちゃんは……私のこと、子供だと思ってる)




 その夜、和子は決心した。


(このままじゃ、いけない。ちゃんとお父ちゃんに話そう)




 翌朝、和子は清が工場へ出かける前に声をかけた。

「お父ちゃん、話があるの」


「……なんだ」


「私……好きな人がいます。その人と、お付き合いしています」


 清の眉がぴくりと動いた。

「どこの誰だ」


「早瀬修さん。地主の家の方で、本屋で知り合いました」


 清はしばらく無言だった。そして低い声で言った。

「……やめろ」


「え……?」


「そういう男は、うちのような家の娘を本気では見ない。お前は都合のいい暇つぶしにされるだけだ」


「そんなことない! 修さんは真剣に……!」


「真剣かどうかなんて、俺が一番よく分かる!」


 清の声が怒鳴り声に変わった。和子は胸が潰されるような思いで立ち尽くした。


「まだ早い」


 清の声は、工場に響く鉄の音よりも重く、鋭かった。


「お父ちゃん……でも、私もう二十です。修さんだって、きちんと責任を——」

「だからだ」

 清は、机の上の帳簿を強く閉じた。

「責任だの、家柄だの。そんな上辺の言葉で、人生が守れると思うな」


 和子は思わず唇を噛み、父の目を見返した。

「修さんは、私のことを本気で大切にしてくれています」


「甘い」

 その一言は、鋭い刃のように胸を刺した。




 工場の隅で、弘司が黙って二人のやり取りを見ていた。


(父さん……まただ。妹の気持ちを分かってやれよ)


 弘司は深呼吸し、声を出した。

「父さん」


「弘司、お前まで何を言う」

「和子はもう子供じゃない。父さんが和子を思う気持ちはわかる。でも、父さんが母さんを守ったように、修さんは和子を守ってくれるかもしれない」


「かもしれない、じゃダメなんだ!」

 清の声が大きく響き、工場の壁に反響した。




 家に戻った夜も、空気は張り詰めたままだった。


「清さん、和子の気持ちも聞いてあげて……」

 マサ子がそっと言ったが、清は箸を置き、無言で立ち上がった。




 数日後。和子はついに家を出た。駆け落ちに近い形だった。


 玄関先で、マサ子が泣きながら娘の手を握る。

「和子……お父さんだってあなたに幸せになって欲しいのよ。だからきっと分かってくれる時が来るわ」


「……うん。ありがとう、お母さん」


 和子の荷物を車に積み込みながら、弘司は小さく呟いた。

「何かあったら、すぐ連絡しろ」

「うん……お兄ちゃんもありがとう」




 家の中は、和子がいなくなってから静まり返った。


 清は夜、縁側に座り込んでいた。煙草の煙が夜風に流れ、工場の明かりがちらちらと揺れる。


(俺は……間違っていたのか)


 孝司を失ったあの日から、清の心は恐怖に縛られていた。大切なものを守れなかった悔しさ。もう誰も失いたくないという思い。それが、頑なさになり、娘の幸せまで遠ざけていたのかもしれない。





 やがて季節が移り変わり、和子は女の子を産んだ。


 ある日、弘司が見知らぬ赤子を抱えて家に戻ってきた。長く顔を見せなかった和子の来訪を告げていた。


「父さん。和子が帰りたいって言ってる。孫の顔を見てほしいんだ」


 清はしばらく無言だったが、ゆっくり立ち上がった。




 座敷に通された和子と修が深々と頭を下げた。


「お父さん……ずっと勝手をして、申し訳ありませんでした」


 清はゆっくりと顔を上げた。その視線の先には、小さな小さな命があった。和子の腕に抱かれた赤子が、か細い声で泣きながら手を伸ばしている。


「この子が……お前の……」


 和子が頷くと、清は震える手で孫を受け取った。




「……小さいな」


 孫の頬は、柔らかな桃のようだった。小さな手がふにゅ、と清の指を握る。


(ああ……)


 あの日のことが蘇った。戦後の町屋で、弘司を初めて抱いた時の重さ。孝司の短い命の記憶。和子が産まれた日の、マサ子の涙。


 全ての想いが、この小さな手に繋がっている気がした。




「……可愛いな」

 清の声はかすれていた。頬を伝う涙に、孫が小さく笑ったように見えた。


 和子も、修も、そっと涙を拭った。




 夕暮れの縁側で、清は水彩画の道具を広げていた。


「父さんが絵を描くのを見るのは久しぶりだな」

 弘司が声をかける。


「孫に……何か残してやりたくてな」

 淡い色で描かれたのは、庭先で微笑む孫と和子の姿だった。

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