第二話 兄と弟
東京の春は、雪国とはまるで違った。
空が広くて、風がやわらかい。舗装された道には馬車が通り、見たことのない果物や、知らない言葉が飛び交っている。マサ子は目を丸くしながら、背筋を正してその立派な家の前に立っていた。
「ここが、あんたのこれからの家だよ」
そう言ったのは、鈴木しげだった。奉公先の女主人で、マサ子より二十歳ほど年上のはずだが、自分の母とは違い気の強そうな目をしていて、薄い唇にしっかり紅を引いていた。
「掃除、炊事、洗濯。最初は覚えることが多いけど、あたしは甘くないよ。覚悟してね」
マサ子は深く頭を下げた。
「はい。よろしくお願いいたします」
まだ十五歳になったばかり。マサ子は小柄で痩せていたが、その背筋は雪国の子供らしく、芯が通ってまっすぐだった。
その夜、台所で使い終わった食器を片付けていたとき、奥の縁側の方から静かな足音が聞こえた。
「君が、今日から来た子?」
声をかけてきたのは、背の高い青年だった。年の頃は二十歳前後。きちんとした着物姿で、本を小脇に抱え、眼差しはどこか優しく、けれど憂いを含んでいた。
「はい……山中マサ子と申します」
「……弟たちは大丈夫なのか?」
出会って早々に言われたその言葉にはっとして、マサ子は手を止める。
「どうしてそれを……?」
「姉さんが少し話してくれた。今度来るのは雪国の子だって。……井戸の話も、弟のことも」
マサ子は目を伏せた。貧しかった自分に対する恥ずかしさと、心の奥を覗かれたような戸惑いで、胸がざわついた。
「ごめん。驚かせたね。俺は、しげの弟で——清。よろしくな」
「……清、様……?」
「『様』なんて、いらないよ。ただの厄介者さ。戦にも行けない体で、家の手伝いもろくにできない。……情けない弟だ」
そう言って、清は少し笑った。だがその笑顔には、ほんの少し影があった。
後にしげから聞いた話によると、清は子供のころ川で溺れ、命は助かったが肺に障害が残ったという。深く息を吸い込むと、ときおり痛みが出て咳が止まらなくなるらしい。
戦争が始まると、周囲の男たちは次々と召集された。だが清は、徴兵検査で「不適格」とされ、唯一この家に残っていたのだった。
マサ子が奉公先に来てから数日後。
訓練から勝利が戻って来ると言って、朝からしげは嬉しそうに迎える準備をしていた。
「姉さん、ただいま」
軍服ではなく、平服姿で帰ってきた勝利が玄関でそう言ったとき、しげはぱっと華やいだ明るい表情になり、いつになく大きな声で出迎えた。
「勝利! やっと戻ったのね!」
その賑やかな様子に気づき、そっと玄関先を覗き込んだマサ子は、一瞬、言葉を失った。
——この人が、勝利さま?
清と同じく整っていて精悍な顔立ちだったが、彼は陽の光を纏うような青年だった。眼差しがまっすぐで、背筋がしゃんと伸び、声がよく響き朗々としている。清が影なら勝利は光のようで、二人はまるで対照的な雰囲気を持っていた。
「この子が、雪国から来た子かい?」
板間の影に隠れていたマサ子を見つけ、勝利がその前に立つ。マサ子は思わず目をそらし、ぎこちなく頭を下げた。
「……山中マサ子と申します」
「そうか。しっかりした子だな。働き者だって姉さんも喜んでるよ。……ここでは気を張らずにいてくれ。無理はするな」
あまりにも優しく声をかけられ、気遣われ、マサ子は驚いて返事をすることもできなかった。その優しさが逆にマサ子の胸を締めつけた。
(こんなに優しい言葉を……これまで誰からももらったことなんてない)
その夜、全ての仕事を終え自室へと下がろうとしていた時、縁側から話し声が聞こえてきて、マサ子はふと耳を澄ませた。
「清、お前、また咳が出てるな。無理するなよ」
「大丈夫さ。……それより兄さん。行くんだろ」
「……ああ。いずれはな」
その言葉を聞いたとき、マサ子ははたと気づいた。——召集令状。
——この家には、戦争の足音がもう入り込んでいる。
東京の空はまだ青かった。でも、その青さの向こう側では、目に見えない煙が立ちこめはじめていた。
マサ子は、その時まだ知らなかった。
この家で、自分の運命が大きく動き出そうとしていることを——。