第二十五話 葛藤の新天地
千葉に移り住んでから数ヶ月が過ぎた。春の風が鉄工所の軒先を抜けると、潮の匂いが微かに混じる。
弘司は工場の片隅で、鋼材に油を塗り込む手を止め、深く息をついた。背広を着て工場を訪れる営業の男たちが、時おり自分をちらりと見る。その視線には、冷ややかさと、どこか侮蔑が混じっているように感じた。
(俺は、父さんみたいに立派にやれるんだろうか……)
弘司の視線の先では、父の清が旋盤の前に立ち、精巧な部品の寸法を測っていた。
戦後、町屋で築き上げた工場を畳み、この千葉で一から始めた父。その背は年齢と共に少し丸くなったが、現場に立つ姿は今も凛としている。
「弘司、寸法を確認しろ」
清が低い声で言った。
「はい」
弘司は定規を持つ手を強く握り、急いで父の元へ向かう。
その後ろから、小声が聞こえてくる。
「東京から来た坊ちゃんだよな、あいつ」
「親父の威光で仕事してるだけだ」
工場の先輩たちの噂話だった。弘司は胸の奥に重いものが沈むのを感じながら、無言で耳を塞いだ。
昼休み、弘司は裏の資材置き場で缶コーヒーを飲んでいた。遠くでカンカンと金属音が響き、潮風が錆びた匂いを運んでくる。
「弘司」
父の声がした。弘司は慌てて立ち上がる。
「どうだ、工場の仕事にはもう慣れたか」
「……はい」
本当は慣れていなかった。町屋での工場なら、気心知れた職人たちがいて、気楽に働けた。だが千葉では、父が「町屋でのやり方は通用しない」と何度も言うように、全てが違った。
「弘司」
父は少し間を置いて続けた。
「……お前ももう二十九だ。ここでは甘えは通じんぞ」
弘司は歯を食いしばり、小さくうなずいた。
その日の夕方、工場の隅で弘司はひとり重たい鋼材を運んでいた。
「おい弘司、慎重にやれよ!」
背後から先輩の叱責が飛ぶ。思わず振り返ると、先輩たちの口元にうっすら笑みが浮かんでいた。
(……何も言うな、歯を食いしばるんだ)
弘司はただ黙々と鋼材を運び、汗が頬を伝うのを拭わずにいた。
その夜。
「ただいま」
家に戻ると、和子が夕食の準備をしていた。マサ子は座敷に座り、少し疲れた顔をしている。
「お兄ちゃん、お疲れさま」
和子の笑顔に、弘司はようやく少し肩の力が抜けた。
「母さん、無理するなよ」
「ええ……ありがとうね」
母は、最近少しずつ暗い影を落としている。弘司は母の陰りに気づきながらも、どう声をかけたらいいかわからなかった。
夕飯の後、清が帳簿を眺めながらつぶやいた。
「弘司、お前も早く現場で一人前になれ。俺がいなくなってもやれるようにな」
「父さん……まだそんな歳じゃないだろ」
「そういう歳だからこそ、準備が要るんだ」
清の言葉は、弘司の胸に重く響いた。
夜、弘司は布団に入りながら、父の背中を思い出していた。
(俺は本当に親父みたいになれるのか…)
遠くで潮風が木枠の窓を揺らした。




