表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/34

第二十五話 葛藤の新天地

 千葉に移り住んでから数ヶ月が過ぎた。春の風が鉄工所の軒先を抜けると、潮の匂いが微かに混じる。


 弘司は工場の片隅で、鋼材に油を塗り込む手を止め、深く息をついた。背広を着て工場を訪れる営業の男たちが、時おり自分をちらりと見る。その視線には、冷ややかさと、どこか侮蔑が混じっているように感じた。



(俺は、父さんみたいに立派にやれるんだろうか……)



 弘司の視線の先では、父の清が旋盤の前に立ち、精巧な部品の寸法を測っていた。

 戦後、町屋で築き上げた工場を畳み、この千葉で一から始めた父。その背は年齢と共に少し丸くなったが、現場に立つ姿は今も凛としている。



「弘司、寸法を確認しろ」

 清が低い声で言った。

「はい」

 弘司は定規を持つ手を強く握り、急いで父の元へ向かう。


 その後ろから、小声が聞こえてくる。


「東京から来た坊ちゃんだよな、あいつ」

「親父の威光で仕事してるだけだ」


 工場の先輩たちの噂話だった。弘司は胸の奥に重いものが沈むのを感じながら、無言で耳を塞いだ。




 昼休み、弘司は裏の資材置き場で缶コーヒーを飲んでいた。遠くでカンカンと金属音が響き、潮風が錆びた匂いを運んでくる。


「弘司」

 父の声がした。弘司は慌てて立ち上がる。


「どうだ、工場の仕事にはもう慣れたか」

「……はい」


 本当は慣れていなかった。町屋での工場なら、気心知れた職人たちがいて、気楽に働けた。だが千葉では、父が「町屋でのやり方は通用しない」と何度も言うように、全てが違った。



「弘司」

 父は少し間を置いて続けた。

「……お前ももう二十九だ。ここでは甘えは通じんぞ」


 弘司は歯を食いしばり、小さくうなずいた。



 その日の夕方、工場の隅で弘司はひとり重たい鋼材を運んでいた。

 「おい弘司、慎重にやれよ!」

 背後から先輩の叱責が飛ぶ。思わず振り返ると、先輩たちの口元にうっすら笑みが浮かんでいた。


(……何も言うな、歯を食いしばるんだ)


 弘司はただ黙々と鋼材を運び、汗が頬を伝うのを拭わずにいた。




 その夜。


「ただいま」

 家に戻ると、和子が夕食の準備をしていた。マサ子は座敷に座り、少し疲れた顔をしている。


「お兄ちゃん、お疲れさま」

 和子の笑顔に、弘司はようやく少し肩の力が抜けた。


「母さん、無理するなよ」

「ええ……ありがとうね」


 母は、最近少しずつ暗い影を落としている。弘司は母の陰りに気づきながらも、どう声をかけたらいいかわからなかった。




 夕飯の後、清が帳簿を眺めながらつぶやいた。

「弘司、お前も早く現場で一人前になれ。俺がいなくなってもやれるようにな」


「父さん……まだそんな歳じゃないだろ」

「そういう歳だからこそ、準備が要るんだ」


 清の言葉は、弘司の胸に重く響いた。



 夜、弘司は布団に入りながら、父の背中を思い出していた。

(俺は本当に親父みたいになれるのか…)


 遠くで潮風が木枠の窓を揺らした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ