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第二十四話 芽生える恋

 千葉の空気は、町屋よりもずっと湿り気を帯びていた。潮の匂いが混じる風が吹くと、春先でもまだ冷たく感じる。


「お母さん、これ、どこに置く?」

 和子は両手に抱えたダンボールを、母のマサ子に見せた。中には古いアルバムや食器が詰め込まれている。


「ええと……その箱は、座敷に置いておいて」

 マサ子の声は少し疲れていた。引っ越しの慌ただしさもあるが、このところ母の笑顔がどこか翳りがちなのを、和子は気づいていた。




 外では、弘司が父の清と一緒に鉄製の部品を運んでいた。

「ここに置くぞ、弘司。ほら、気をつけろ」

「わかってるよ、父さん」


 清はこの新しい土地で、小さな鉄工所を始めるつもりだった。町屋で築いた工場を畳むのは清にとっても苦渋の決断だったが、「もう一度、一から立て直す」という思いで、千葉への移転を決めたのだ。


 和子は縁側に座り、働く父と兄を見つめた。弘司はすっかり逞しくなっている。けれど、引っ越してすぐに通い始めた新しい仕事場では、まだ馴染めていない様子だった。




(お兄ちゃん、頑張ってるな……)


 和子は小さくため息をつく。自分も母のことを支えなければ、という気持ちが強かった。


 でも、それだけじゃなかった。

 この数ヶ月、和子の胸には、柔らかな灯りのようなものが揺れていた。




 千葉へ来てほどなく、和子は近所の本屋でアルバイトを始めた。店主の甥だという青年・早瀬修(はやせおさむ)と、何度か言葉を交わすようになった。


「和子さんはいつも明るくていいな。お店の中も華やぐよ」

「そんな……私なんか…」


 修は穏やかな笑みを浮かべる人だった。弘司や父のような無骨さはなく、どこか都会的で、優しい話し方をする。服のセンスも良く、いつもいい香りを漂わせる修は、父や兄とは全く違うタイプの男性だった。


 気づけば和子は、修と話す時間を心待ちにするようになっていた。


 しかし、その話を家族にはまだしていない。特に父には。


 清は和子の将来に対して、とても厳しい目を持っていた。弘司のように家業を支えてくれるならまだしも、娘は「きちんとした家に嫁に出さねばならぬ」と繰り返し言っている。


(お父さんに話したら……怒るだろうな)




 その夜、夕飯を囲むと、マサ子の箸がふと止まった。


「和子、バイトはどう?疲れていない?」

「うん、大丈夫。お母さんも……無理しないでね」

 和子は母の瞳にかすかな陰りを見つけ、心の奥がチクリとした。


「お母さん、明日、少しお散歩しない? お花でも見に行こう」

「そうね……。でも、まだ片付けが終わっていないし。お父さんも弘司も、仕事が軌道に乗ってないからね…」


 和子はうなずきながらも、母を気晴らしに連れ出したい気持ちが消えなかった。




 夕食後、清は居間の隅で古い帳簿を広げていた。弘司が隣に座り、真剣な顔でメモを取っている。


「弘司、お前ももう一人前だ。だが、町屋でやってきたやり方がこの先も通用するとは思うな」

「……わかってる」


 弘司の声には微かな苛立ちが混じっていた。町屋の工場では一番頼られる存在だったのに、千葉では仕事仲間との軋轢が多く、まだ馴染めずにいる。


(お兄ちゃん……大丈夫かな)


 和子は二人の背中を見つめ、両手をぎゅっと握りしめた。




 その夜、布団に入ってから、マサ子がぽつりとつぶやいた。

「和子……お前には幸せになってほしい」

「お母さん、私なら大丈夫だよ」


 和子は母の手を握り、胸の奥で修の顔を思い浮かべた。

(お母さんが元気になったら、きっと話そう……)




 翌朝、工場の裏庭から響く金属音を聞きながら、和子は心の中で小さく誓った。


(私が母とお兄ちゃんを支える。そして……私の人生も、ここから歩みを始めるんだ)

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