第二十三話 雪解けの家族
町屋の長屋の小さな庭で、最後の洗濯物が冬の風に揺れていた。
古い瓦屋根にかかる薄い雪が少しずつ溶け、ぽたぽたと軒先の桶に落ちる音が家の静けさの中で響く。
「……この家とも、今日でお別れか」
清は背筋を丸めて、庭先に立つ。長屋は戦後の苦しい時代を一歩ずつ支えてくれた場所だった。ここで弘司のランドセル姿を見送り、和子の小さな足音を何度も耳にした。鉄工所の油の匂いと石炭の灰が、家に染みついている。
ふと見れば、壁に掛けたカレンダーが、剥がし忘れたまま二月で止まっていた。
「……お父さん、荷物まとめ終わったよ」
和子が少し赤らんだ頬で座敷から顔を出した。十九になった娘は、幼い頃のままの澄んだ瞳で見上げてくるが、近頃はどこか遠くを見つめるような表情をすることが多くなった。
清はうなずくと、押し入れに残っていた最後の箱を手に取った。中には、古い設計図や水彩画が何枚も詰まっている。勝利が残した油絵のスケッチも一緒だ。兄の筆跡が、まだそこに生きている気がした。
町屋の裏路地は、子供の頃の清が駆け回った田畑とはまるで違う場所だった。だがここで、清は家族を養い、弘司と和子を守ってきた。
古い友人の職人仲間たちが何人も去り、残るのは自分の家族と、この年季の入った長屋だけだった。
「父さん……ほんとに、千葉に行くの?」
弘司が工場の前で工具箱を担ぎながら問いかけてくる。
「ここを離れるのは寂しいな。思い出も多いし」
清は一度目を閉じ、深く息をついた。
「……けどな、弘司。町屋はもう仕事が減っていく一方だ。外国の機械ばっかりで、昔みたいに俺たちの出番はねえ。千葉で土地を借りて、工場を大きくするしかない」
「わかってるよ。俺、父さんと一緒にやる」
弘司の背はもう清に届くほど高くなっていた。戦後すぐの、父親代わりとして抱き上げたあの日の幼い体は、もうどこにもない。だがその中には、間違いなく兄・勝利の血と、自分の血が流れている。
「お母さん、まだ干すの?」
和子が戸口に立っていた。年頃の娘は、幼い頃の柔らかい輪郭が消え、母と同じくらいの背丈になっている。
「ええ、これがこの家で干す最後の洗濯物になるから」
和子は少し寂しそうに笑った。
「千葉に行ったら、洗濯場は広いのかな」
「どうかしらね。でもお日様がよく当たるといいわね」
マサ子は笑顔を見せながら、心の奥に沈む不安を隠した。
(和子……この子は、私よりずっと強い子だ)
外では、弘司が父の清と一緒に大きな木箱を運んでいた。
二十九歳になった弘司は、父の背を追い越し、肩幅がぐっと広くなっている。和子のもう一人の父親のような存在になった。
「父さん、こっちは俺が持つから」
「おう、気ぃ抜くな」
清は短く応じた。幼い頃から肺が弱く、戦争に行けなかった清。その代わり、町屋で工場を持ち、家族を支えてきた。弘司はいつの間にかその背中を追いかけ、父の右腕になっていた。
(弘司……この子は、勝利に似ている。けれど、清さんにも似ていて、どちらの良さも併せ持ってる)
マサ子は胸の奥がチクリと痛んだ。幼い弘司の頬を撫でながら、勝利の遺影に「この子を守って」と祈った夜のことが、昨日のように思い出される。
台所の棚を拭き終えたマサ子は、縁側に立った。
ふと柱に目をやると、小さな彫り傷が見えた。
「お父ちゃん」と幼いが弘司の彫った文字が、薄っすらと残っている。あの頃の「お父ちゃん」は、勝利のことか、それとも清のことか……。
「勝利さん……」
思わず声が漏れ、慌てて唇を押さえた。弘司が二歳のとき、勝利は戦地で命を落とした。それでも、清がいなければ自分はきっと生きてこられなかった。
(私は、あなたの弟を夫に選びました……)
改めてそう心の中で告げると、ひと筋の涙が頬を伝った。
荷物がすべて積み終わり、庭先で清が長屋を見上げていた。
「……よく頑張ったな、この家も」
清の低い声が風に混じり、聞こえた。
マサ子は夫の背中を見つめた。幼い頃、川で溺れかけて以来ずっと弱かった肺。けれど、あの日から清はずっと家族を守り抜いてきた。
「清さん……」
「なんだ」
「……千葉でも、大丈夫かしら」
清は短く息をつき、柱を軽く叩いた。
「俺がやる。お前らにはもう、苦労はさせん」
その言葉が、心の奥まで届く。
弘司が妹を伴って、縁側に戻ってきた。
「母さん、和子が寒いって」
「そう。ありがとうね、弘司」
和子はマサ子の袖をぎゅっと握った。
「お母さん、千葉では私がいっぱい手伝うからね」
「……ありがとう」
小さかった娘が、もう母を支える年齢になった。
(この子には、もっともっと幸せになってほしい)
新しい土地はまだ冷たい風が吹いていたが、遠くに海が見えた。
清が踏みしめた土は、硬く締まっている。
「ここなら、もう一度工場を立ち上げられる」
「父さん、俺も頑張るよ」弘司が力強く言った。
マサ子は、これから始まる新しい暮らしを想像した。けれど胸の奥の陰りは、まだ完全には消えていない。
その時、和子が母の手を握り、明るい声で言った。「お母さん、大丈夫。みんなで頑張ろう」
マサ子は、ほんの少し笑った。




