第二十一話 ふたりのおとうさん
和子は、鉛筆をくるくると回していた。
畳の上にノートを広げてから、もう十五分が経っている。
「“わたしの家族”って、こんなにむずかしいと思わなかった……」
声には出さずにひっそりと呟きながら、窓の外を見た。
夕方の空は少しだけ曇っていて、遠くで商店街のチャルメラが鳴っていた。
「作文、進んでるの?」
台所から母・マサ子の声がした。
「うーん……テーマは“わたしの家族”なんだけど、書きたいことがありすぎて、うまく書けないの」
和子は、口を尖らせてうつ伏せになった。
——お父さんのこと。お母さんのこと。お兄ちゃんのこと。
それに、会ったことのない、もうひとりの“おとうさん”のこと。
去年、兄の弘司が本当の父——勝利の遺品を見つけた日から、和子も何かが変わりはじめていた。
それまでは、弘司が清の本当の子どもでないこと、清が母の再婚相手であることさえ、あまり深く考えていなかった。
けれど、あの日から——
家族とは何か、「おとうさん」とは誰なのか、ずっと考えるようになった。
その夜、和子は清のそばに行って言った。
「ねえ、おとうさん。わたし、“ふたりのおとうさん”について、作文に書いてもいい?」
清は驚いたように目を見開き、少しだけ目を細めた。
「ふたり、か……」
「うん。お父さんと、勝利さん。……弘司おにいちゃんが、生まれる前に亡くなった、もうひとりのおとうさん」
清は静かにうなずいた。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「……いいよ。おまえがそう思うなら、書いてみなさい。その気持ちは、きっと誰かの心にも届く」
——ありがとう、おとうさん。
和子は心の中でそうつぶやいて、鉛筆を持ち直した。
数日後、教室では作文発表の時間が始まっていた。
黒板には「わたしの家族」と書かれた大きな紙。
教壇に立った和子は、すこし緊張した面持ちで、手に持った原稿用紙を見つめた。
「『ふたりのおとうさん』
わたしには、おとうさんがふたりいます。
ひとりは、今いっしょに暮らしているおとうさん。
もうひとりは、わたしが生まれるずっと前に、戦争で亡くなった人です。
その人の名前は、勝利さんといいます」
教室が、少し静まり返った。
和子はゆっくりと、言葉を紡いだ。
「勝利さんは、わたしのおにいちゃんのほんとうのおとうさんです。
絵を描くのが上手で、やさしくて、学校の先生になりたかったそうです。
けれど、戦争に行かなくてはいけなくなって、おにいちゃんが生まれたときには、もういませんでした」
「わたしが小さいときは、そのことを知らなかったけれど、ある日、おにいちゃんが見つけた箱の中に、勝利さんの手紙や絵がありました。
それを見て、わたしは思いました。
そばにいなくても、家族になることはできるんだって」
教室の空気が、少しだけあたたかくなるのを、和子は感じた。
「もうひとりのおとうさん——わたしのおとうさんの名前は清といいます。おにいちゃんのお父さんと私のお父さんは兄弟です。
わたしとお母さんとおにいちゃん、ずっと家族を守ってくれています。
おとうさんは、昔、絵を描くのが好きだったそうです。いまは町工場で、部品を修理する仕事をしています」
「ときどき夜遅くまで働いていて、手はごつごつしていますが、寝る前に、台所の電気を消すとき、かならず一度、私の顔を見て微笑んでくれます。それが、わたしの一番すきな時間です」
「わたしとおにいちゃんとお母さんとお父さんは、本当の家族ではないと言う人もいるかもしれません。
けれど、わたしはそうは思いません。
お父さんも勝利さんも、おにいちゃんにとっての“おとうさん”です。
ふたりとも、わたしの大事な家族です」
「だからわたしは、ふたりのおとうさんの娘です。わたしのなかには、おにいちゃんの本当のお父さんの強さと、今のお父さんのやさしさが流れていると思っています。
生きていても、生きていなくても、心の中で家族を守ってくれるふたりのお父さん。
わたしたちは、誰になんと言われようとも、本物の“家族“だと思います。
——おわりです」
教室は、しばらく静まりかえっていた。
やがて、先生がゆっくりと拍手をし、それにつられるように、他の児童たちも手を叩いた。
その日の放課後。
家に帰った和子は、作文を清に手渡した。
「おとうさん、聞きたかった? ちょっと恥ずかしかったけど」
清は原稿用紙を受け取り、無言で目を通した。
そして、静かに言った。
「……ありがとう。書いてくれて。兄貴も、きっと喜んでる」
和子は、ふふっと笑って言った。
「うん。わたし、おとうさんがふたりいて、よかったって思ってる」
清は、それ以上何も言わず、ただそっと和子の頭を撫でた。
その手の温もりが、彼女にとって“ほんとうの父”である証のようだった。
——ふたりのおとうさん。
そのどちらも、わたしの心の中にいてくれた。




