第二十話 兄の話をしよう
夏の気配が忍び寄る夜だった。
風が少し蒸していて、蚊取り線香のにおいが家の隅々に漂っていた。
町屋の細い路地は、もう人通りもなく、どの家の明かりも落ちていた。
「今日は蒸し暑いから、廊下で寝てもいい?」
和子が布団を持ってきて、廊下に広げながら聞いた。
「いいよ。網戸だけ閉めてな」
清がうちわを扇ぎながら言う。マサ子はすでに隣の座敷で眠っていて、起きているのは清とふたりの子供だけだった。
弘司は読書灯を消して、畳の上にゴロンと横になった。ふと顔をあげると、父の足元に、古いアルバムが置かれていた。
「お父さん、それ何?」
「……ああ、昔の写真だ。たまには、兄貴の顔を見たくなってな」
清はゆっくりと座り直し、アルバムをめくった。
そこには、戦前の白黒写真が何枚も貼られていた。
雪の中で笑う若い男たち。
夏の川原で水をかけ合う少年たち。
そして、画板を膝に置き、穏やかに微笑む、一人の青年——。
「……これ、もしかして……」
弘司が指差した。
「うん。おまえの本当の父さんだ。俺の兄、勝利」
和子が、清の膝の横にちょこんと座った。
弘司も膝を立てて、アルバムを覗き込む。
清は、一枚の写真を取り出した。
戦前、故郷の生麦で撮った一枚だった。
「これはな、兄さんが描いた絵を、展覧会に出したときのだ。油絵で、村の坂道を描いたんだ。すごく立体的で、まるで坂を登ってるみたいな……」
「へえ……すごいな」
「お父さんも絵、描くよね」
和子が身を乗り出して言った。
「うん。俺は水彩だ。兄貴は、力強くて大胆な絵を描いたけど、俺は……まあ、細かいだけだよ」
「どんな人だったの? 勝利おじちゃん」
和子は、まっすぐに尋ねた。
清は、ふっと息をついて、天井を見上げた。
しばらく黙ってから、言葉を選ぶように口を開いた。
「……静かな人だった。怒ることは滅多になかったけど、芯が強くてな。
学校の先生になるのが夢だったんだ。絵を教える先生になって、田舎の子どもたちにも、絵の楽しさを教えたいって」
「先生……なってたら、俺にも教えてくれたかな」
弘司がぼそりと言った。
清は、その言葉に少しだけ目を細めた。
「なってたら、きっと毎日怒られてたぞ。お前、図工でいつも手抜きするからな」
弘司と和子が、くすっと笑った。
畳の上に流れる笑い声が、ほんの少しだけ遠い過去を照らした。
「でもな……兄貴は、戦争に行った。教師になる夢も、絵を描くことも全部捨てて。……そうしないと、生きていけない時代だった」
和子が、うつむいた。
弘司は、小さくうなずいた。
「そして、帰ってこなかった。……俺たちは、兄貴の帰りをずっと待ってたけど……」
その声は、かすかに震えていた。
弘司は、父の横顔を見た。
いつも強くて、静かで、何も言わない父が——今、ほんの少しだけ、過去に揺れていた。
「兄貴がいなくなって、うちはめちゃくちゃだった。
姉さんは泣いてばかりだったし、弟たちは腹が減って泣いた。
でもな、誰かが働かないと、誰も生きられなかったから……俺がやるしかなかった」
「お父さん、戦争行かなかったの?」
和子が聞いた。
「……行けなかったんだ。子どもの頃、川で溺れてな。肺に傷が残ってた。
軍医に“影がある”って言われて、村に残った」
弘司の喉が少しだけつまった。
父が語るその言葉の重みが、ゆっくりと自分の胸に落ちてくる。
「俺は、兄さんの代わりにはなれなかったけど……おまえたちを守るために、生きてきたんだ。
それだけは、間違いなく、誇りに思ってる」
しばらくの沈黙のあと——
弘司が、ぽつりとつぶやいた。
「俺……名前の由来、知ってるよ。“広い空に春が来るように”って、勝利さんが考えてたって。
俺、それ聞いて、ちゃんと意味のある名前なんだなって思った」
清は、それを聞いてゆっくりとうなずいた。
「そうだ。おまえは、春そのものだ。——兄貴が、春のかわりに遺した命なんだよ、弘司」
外では風が少し強くなり、どこかで風鈴が鳴った。
「……じゃあ、私は?」
和子が小さな声で聞いた。
清は、娘の頭をなでた。
「おまえは、春のあとの光だよ。平和そのものだ。あたたかくて、やわらかくて……母さんがお前を産んだあの日、涙の中で笑った理由だ」
和子は照れて笑った。
弘司は、立ち上がって押し入れからスケッチ帳を出した。
「……今度の夏休み、勝利さんの風景、描いてみようかな。俺なりに——春を、描いてみたい」
清は、黙って頷いた。
そして、灯りを落としながら静かに言った。
「——ありがとう。兄貴のことを、お前の本当の父親のことを知ろうとしてくれて。覚えてくれて」
その夜、三人は同じ布団に並んで眠った。
風鈴の音の奥に、遠い遠い記憶が、そっと微笑んでいた。




