第十七話 静かに灯る
その夜、町屋の空は曇っていた。
雨が降るか降らないか、そんな灰色の空。
線路の向こうから風が吹き、家の戸がひとつ、かすかに鳴った。
清が帰ってきたのは、日がとっぷりと暮れた頃だった。
「ただいま」
玄関から聞こえてきた声に、マサ子は一瞬、立ち上がりかけてから、座布団にそっと腰を下ろし直した。
台所には夕飯の名残があり、弘司が味噌汁を飲んでいたし、和子は食べ終えたばかりで、お茶を飲んでいた。
「おかえりなさい」
少し大きな声で清に聞こえるように言うと、清がこちらに来るのを待った。
清は玄関で靴を揃え、静かに風呂敷を下ろした。
肩には、旅の疲れが少し滲んでいる。
けれど、その顔には、どこか穏やかな色が差していた。
マサ子は、黙って湯呑みに番茶を注いだ。
差し出すと、清は受け取り、湯気の向こうで一度、目を細めた。
「……ありがとう」
その声に、マサ子は静かに口を開いた。
「お疲れ様、あなた」
清は黙ったまま、湯呑みを手に、しばらく番茶を眺めていた。
そのまなざしは、ゆるやかに過去をたどっているようだった。
「やっと……話せたよ。兄貴に」
「うん」
「ずっと言えなかった。——ずっと、許されないと思ってた」
マサ子は膝の上で指を組み、目を伏せた。
障子の外では、和子の寝息がかすかに聞こえていた。
弘司は部屋で勉強をしている。
こうして今、日常がある。
「勝利さん、怒ってた?」
「……いや。怒ってなかったよ。ただ、大丈夫だ…ってさ」
それは清の想像か、あるいは“語らぬ返答”を、清なりに受け取ったのか。
けれど確かに、墓の前で交わされた何かは、清のなかでひとつの節目となっていた。
しばらくふたりは、同じ時間に沈んでいた。
何かを言葉にしてしまえば、壊れてしまうような、そんな静けさ。
やがてマサ子が、声を落とした。
「私……あなたと一緒になったとき、心のどこかで思ってたの。
いつか罰が来るんじゃないかって。——勝利さんを裏切ったからって」
「……俺もだ」
「でも、違った。
弘司がまっすぐに育ってくれて、和子が笑ってくれて……
あなたが、逃げずに私を支えてくれて」
清は、黙ってうなずいた。
そして、膝の上のマサ子の手に、自分の手をそっと重ねた。
その手は、少し硬く、そしてどこまでもあたたかかった。決して強引ではなく、ただひたすらに優しかった。
「これから先……弘司にも、和子にも、いつかは言わなきゃいけないと思う。
本当のことを。——兄貴のことも、俺たちのことも」
「うん。そうね。——隠し通すことじゃないものね」
「俺たちは、正しくはなかったのかもしれない。でも、逃げなかった。
どんなに貧しくても辛くても、逃げ出そうなんて一度も思わなかった。子供たちを、家族を、ふたりで守って来た」
マサ子は、小さく息を吐いた。
瞼の裏には、雪の降る新潟の風景がぼんやりと浮かんでいた。
——あの日、勝利が「帰る」と言って出ていった冬の朝。
——あの日、清が「父親になる」と言って、手を差し伸べてくれた夜。
どちらも、自分の人生の中で、永遠に消えることはない。
けれど今、こうして清の手の上に手を重ねているこの感覚が、いちばん“今の自分”を生きている証だった。
清が小さく呟いた。
「……これから先も、俺と一緒にいてくれるか」
その問いは、あまりに不器用で、あまりにまっすぐだった。
マサ子は、声に出さずに微笑んで、うなずいた。
「……はい」
それは、ようやく“夫婦”として交わされた、初めての誓いだった。
言葉よりも、指先のぬくもりよりも、ずっと深くて静かな絆。
それが、ふたりの夜に、静かに灯った。
台所の明かりが揺れていた。
雨はまだ降らず、町屋の夜は、静けさのなかで息づいていた。




