閑話 赦された日
墓石の前には、雪がまだ少し残っていた。
春のはじまりを告げる風は冷たく、手のひらの中の線香がふるえていた。
十数年ぶりに訪れた、神奈川・生麦にある寺。俺たちが産まれた地。
そこは兄・勝利が眠る場所。
「……久しぶりだな、兄貴」
そう言って、線香を立てた。
煙がすっと空にのぼっていく。
兄貴は、あの空のどこかで見てるのだろうか。
俺は、ずっとこの墓に来られなかった。
来てしまえば、何かが壊れてしまいそうだったから。
マサ子と、弘司と、和子と——築いた今の暮らしが、ぐらつきそうで。それは俺の心の問題でもあった。
けれど、弘司があの日、「実の父を知りたい」と言ったとき、俺のなかで、何かが静かに動いた。
兄貴。
俺は、あんたのかわりに弘司を育てた。
あの子が物心ついたときから、ずっと父親でいた。
マサ子が壊れかけてたときも、
手を離さなかった。
だけど——
兄貴、あんたが本当の父親だ。
それは間違いのない事実だ。
「俺が父親になっていいのか」
そんな問いを、何百回も胸の中で繰り返してきた。その問い答えてくれる人なんていないことを知っていたのに、問いかけずにはいられなかった。
俺は本当の父親じゃない。
けどな……兄貴。
あの子はちゃんと育ってる。
勉強は少し苦手だけど、まっすぐで、やさしい子に。
あんたの血が流れてること、誇りに思うよ。
……なぁ、兄貴。
俺は、あんたのこと、ずっと憧れてたんだよ。
子供のころから、絵も、体格も、頭もなんにも敵わなかった。
それでも、兄貴が笑ってると、それだけで嬉しかった。
そして、兄貴がマサ子を選んだとき。
俺は——心のどこかで、悔しくて、でも納得もしてた。
あの人は、兄貴を見てた。
俺なんか、ひとつも見てなかった。
それが悔しくて、情けなくて、でも、どうにもならなかった。
だから、戦死の報せが来たとき。
俺は……泣けなかった。
それどころか、どこかで思ってしまったんだ。
「これで、俺にもチャンスが来るのかもしれない」って。
——最低だろ?
それからずっと、自分を許せなかった。
マサ子と暮らすようになっても、浩を育てても、どこかで、兄貴に顔向けできない自分がいた。
でも今、こうして墓前に立ってみると、ようやく言える気がするよ。
兄貴。
あんたが遺していった家族を、俺は全力で守ってきたよ。
弘司も、和子も、立派に育ってる。
マサ子も、もうちゃんと笑うようになった。
俺なりに、命張って、生きてきた。
それを——
もし空の上から見ててくれるなら…
少しだけでいい、胸を張らせてくれ。
……兄貴。
今度はもう、逃げねぇ。
マサ子の手を、ちゃんと握って生きてく。
だから、どうか——
あんたの分まで、俺に家族を託してくれ。
線香の煙が、やさしく風に揺れていた。
雪の香りが、春の匂いに変わる。
冬が、終わろうとしていた。
兄貴がとても近くで「大丈夫だ」と、俺の肩を叩いてくれたような、そんな気がした。
兄貴。
ありがとう。
おれを、許してくれて、ありがとう。
そう呟いて、墓をあとにする。
足元の雪が、ざく、ざくと音を立てて、
春の陽のなかへ、踏みしめるたびに溶けていった。




