閑話 父の本心
妻が死んだ朝、空は冗談みたいに晴れていた。
雪国の冬にしては珍しく、雲ひとつない空。井戸の底から引き上げられた妻の体は、降り積もった雪よりも白く、冷たくなっていた。
泣かなかった。いや、泣けなかった。
それはもう、ずっと前から決まっていたような死だったから。
妻が嫁いできて十年。気丈に見えた女だったが、心の中はずっと削られていたのだろう。
貧乏なのが悪い。男の俺が何も守ってやれなかったのが悪い。……そう思った。けれど口にしたことはない。
妻が死んだ後、長女のマサ子が、なにも聞かずに井戸の前に座り込み、土をぎゅっと掴んで泣いていたのを、俺は裏戸の影から見ていた。
あのとき初めて思った。
(この子は、母親と同じようにいつか壊れてしまうかもしれない)
日々の生活に追われる中で、母を亡くした娘はもう子供ではなくなっていた。いや、いられなくなっていた。
朝は火を起こし、弟たちを抱えて粥を炊き、洗い物をし、背中を丸めて薪を運ぶ。
その姿が、どこかで死んでしまった妻の背中と重なって見えるたび、俺は目を背けた。
東京から突然の手紙が来たのは、ある日の昼過ぎだった。
隣の婆さんが持ってきた封筒には、そこはかとなく都会の匂いがした。
「鈴木しげ? どこの誰だ……」
「遠縁の親戚筋の人だとさ。女中が足りねえらしい」
俺は無言で手紙を見つめた。
そして、ふと思った。
(東京に行けば、この子は——生き延びられるかもしれない)
暖かい布団で寝て、毎日三度の飯を食って、新しい場所で、したかった勉強ができるようになるかもしれない。
このままここにいれば、この子は……俺のせいで母親と同じ道を辿ってしまうだろう。
妻が日ごと笑顔を失い、顔色が悪くなっていったのに気づかないふりをしていた己の不甲斐なさ。
夜、囲炉裏の火がくすぶる中、俺は言った。
「マサ。行ってこい」
ほんとうは、もっと言いたいことがあった。
「すまなかった」「ありがとう」「元気でな」——けれど、ひとつも口にできなかった。言葉にしたら、泣いてしまう気がした。
それでも、マサ子はうなずいた。俺を見上げて、静かに、はっきりと。
マサ子に寄り添うことなく、ただ「行け」と言う俺を、もっと責めてよかったのに。
あの子は母親よりも、ずっと強い。
そう信じて、送り出した。
雪がしんしんと降る夜、囲炉裏の火を見つめながら、俺は誰ともなく独り言を漏らした。
「……マサ。お前は行け」
「そして、生きろ」