第十六話 二人の父
箪笥の奥から、ふいに落ちてきた小さな包み。
古びた布にくるまれた、茶色い紙封筒。
母マサ子が大事にしまっていたものだったらしい。
「おかあさん、これ……なに?」
夕飯の片づけをしていた母は、弘司が手に持つ茶封筒を見ると手を止め、ぎこちなく目を伏せた。
「……ああ、それは。おまえのおとうの」
「おとうって、清おじ……いや、清さん?」
言ってから、しまったと思った。
“清さん”と呼ぶことは、もうずっと前にやめたはずだった。
「ちがうの。——あの人のよ」
その声は、落ち着いていてとても静かだった。
弘司は母の顔を伺い、布を解く。母は駄目だとは言わなかった。
中から現れたのは、無数の紙切れと、金属製のペン先、油にじんだ軍用ハンカチ。
そして、父——勝利という人が遺した、たった一通の手紙だった。
「これ……読んでもいい?」
「……いいわ。もう、いいと思う」
弘司は緊張した手つきで手紙を開く。そこには几帳面な…でも力強い文字で、戦地の生活と、妻と息子への想いが書かれていた。
「会えなかったらすまない」「弘司を頼む」「清を信じている」
読み終わったとき、弘司の視界はにじんでいた。
自分には父が二人いる。
でも、どちらも“自分を育ててはくれなかった”ような気がしていた。
記憶にない父。
優しさを向けられすぎて、素直になれなかった育ての父。
それが、ずっと心のどこかに引っかかっていた。
——もう一人の父さん。
俺は、あなたの息子として、ちゃんとやれてますか…。
その問いかけに答えてくれる存在は、永遠にいない。
翌朝、弘司は清に自分の気持ちを素直に伝えた。あの手紙を読んで、黙っていることなどできなかった。
「……俺さ、父さんたちのこと、知りたい」
清はしばらく無言だった。
煙草の火をつけ、吐いた煙がゆっくりと昇っていく。
「弘司、おまえの“父さん”は、ふたりいていい。どっちも間違ってねえよ」
「でも……俺が、ほんとうは“誰の子”なのか、時々よくわからなくなるんだ」
その不安を見てか、清は弘司の頭をぐしゃっと撫でる。今も昔と同じ、固くて大きくて、あったかい手だった。
「おまえは、“おまえ”だ。それでいい」
父の遺品を見てから、浩は毎晩、机に向かって“父さん”に宛てて手紙を書くようになった。いわば父に向けた日記のようなものだ。
書いても、出す場所はない。
けれど、書くことで、自分が誰かを知っていく気がした。
——昭和三十六年。
町屋の町に、少しずつ舗装道路が増え始め、人々の活気が戻りつつあった。
清は変わらず、毎日鉄工所で汗を流している。
和子は、近所の子供らと元気にゴム跳びをして遊んでいる。
母は、小さな針箱を出して、服の直しをしている。
あの日、父の遺品を見つけてから、茶色い包みは、今も弘司の机の引き出しにある。
記憶にない父のことを、弘司は「知ろうとすること」で、ようやく“近づいた”のだと思った。
そして、今そばにいる父のことも、ようやく、まっすぐ見つめることができた。
「……お父さん」
ある夜、ふとした瞬間にたまらずそう呟いた。一呼吸おいて台所から聞こえた返事は、短かかったけれど弘司の心を熱くした。
「なんだ、弘司」
弘司は、ようやく立ち上がり、前へ進む。
“再出発”という言葉の意味を、やっと知った気がした。