第十五話 予期せぬ手紙
雨が降りそうな午後だった。
和子は昼寝中で、弘司は学校。
清はまだ帰らない。静かな、誰もいない台所。
そんなときだった。
「山中マサ子様宛」と書かれた茶色い紙包みが、玄関に届いた。
見覚えのない、旧式の封書と、軍の印。
マサ子はそれを見た瞬間、胸の奥がじくりと痛むのを感じた。
(……まさか)
名前の横に、はっきりと記されている。
「故・山中勝利 殿のご遺族様へ」
手が震えて、包みを開けることができなかった。
座敷に戻り、雨の音に耳をすませながら、じっと封をなでた。
十年以上も前。
昭和十八年の冬、勝利は軍服を着て、「弘司の顔を必ず見に帰る」と言い残して出征した。
その言葉を信じて、マサ子はずっと、帰りを待った。
そして、待ち疲れたあとで——
清が、「俺が父になる」と言ってくれた。
今の小さな幸せな暮らしがある。
弘司と、和子と、清と。
だけど、この茶色の紙に触れていると、自分のなかに“まだ知らないまま凍っていた何か”が、溶け出してしまう気がした。
——マサ子は封を切った。
中から出てきたのは、
色あせたハンカチ、歪んだペン先、軍用手帳の切れ端、そして、小さな紙片の束。
一枚だけ、折りたたまれた手紙があった。
筆跡は、まぎれもなく勝利のものだった。
くっきりとした癖字。
濃い墨。
それは、戦場のどこかで、必死に書かれたものだった。
震える手で、その紙を広げる。
——
マサ子へ
弘司が生まれてから、どれくらい経ったろうか。
そちらは今雪が降っているか? それとも桜が咲いているか?
俺は元気だ。が、少しだけ、胸が痛む。
でも、これは病ではない。多分、“心”のほうだ。
おまえに会えないのが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
弘司に会いたい。抱きたい。名前を呼びたい。
それができないまま死んだら、俺は父親として、何もしていないことになる。
だから、もし俺が帰れなかったら——
清に、弘司を託してほしい。
清は昔、俺の代わりに川に落ちて、肺を悪くした男だ。
あいつなら、お前たちを幸せにしてくれる。大丈夫だ。
そして、マサ子。
生きてくれ。どうか、どうか、生きてくれ。
勝利
——
涙が、ぽとりと紙に落ちた。
清の名が書かれていたことに、驚きはなかった。
むしろ、勝利がそう記していたことに、マサ子は不思議な安堵を覚えた。
あの人は、最初から知っていたのかもしれない。
自分が帰れないことも、清がマサ子と弘司を守ってくれることも。
「あなた……」
声にならない声で、マサ子は勝利の手紙を抱きしめた。
あの冬の日、雪の積もった道で見送った、軍服の背中。あのとき、もっと強く手を握り返せばよかったのだろうか。
でも今——
和子が目をこすりながら、起きてきた。
「おかあ……?」
マサ子はそっと手紙をたたみ、布でくるみ、箪笥の奥にしまう。
「なんでもないの。昔のお手紙よ」
「おとうの?」
「ううん……ちがうの。でもね、大事な人からの手紙」
和子をぎゅっと抱きしめる。
あたたかい体。眠たい目。
この子にとって“おとう”は、清ただ一人なのだ。
マサ子のなかにあった“凍った想い”は、
いま、静かに溶けていく。
——わたしは勝利の妻だった。
でもいまは——
清の妻であり、弘司と和子の“母”なのだ。
勝利さん。
ありがとう。
あなたの願いは、たしかに受け取ったわ。
だから——
わたしは、もう泣かない。