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回想 静かな恋

 昭和三十四年の春。

 洗濯物を干す手を止めたマサ子は、ふと、風のなかに雪国の匂いを感じた。


 深い雪と、白い息と、土間の冷たさ。

 思い出すまいとすればするほど、思い出す——そんな記憶が、まだ胸の奥にある。



 マサ子は大正十四年に生まれた。

 小さな村の貧しい家の長女として。

 弟が二人。母は、マサ子がまだ十の年に、井戸に身を投げた。


 朝になっても戻らなかった母を、マサ子はずっと待っていた。

 父は泣かなかった。ただ、遠くを見ていた。

 マサ子はその日から、“おかあ”になった。



 小学校には、午後のそろばんの時間だけ通わせてもらっていた。

 読み書きは父の言いつけでこっそり練習していたが、周りの子供たちとは違い、普通に学校に通えなかった引け目もあって、マサ子は人前で笑うことが、だんだんできなくなっていった。


 

 十五の年、東京に住む遠縁の鈴木しげに引き取られた。丁稚奉公として「東京で働かせてやる」と言われて、汽車に乗った。

 人生で初めて、家族以外の大人と会話をした。


 しげの家は大きく、立派で、マサ子はたくさんの“見知らぬ”ものを見た。

 磨かれた床、西洋皿、時計の音……

 けれどマサ子がいちばん驚いたのは、しげの弟——勝利だった。


 背が高くて、目が真っすぐで、油絵を趣味で描いていた。

 マサ子には絵の世界は遠く、描かれた風景の意味なんてわからなかったけれど、勝利のアトリエだけが、家の中で唯一“言葉がなくてもやさしい場所”だった。


 夕飯のあと、勝利は言った。


「君は、いつも黙ってるけど、目がちゃんと生きてるね」


 生きてる。

 そう言われたのは、母を失って以来、はじめてのことだった。



 やがてマサ子は、お手伝いから“家族の一員”のように扱われるようになった。

 それでも、勝利と並んで歩くときだけ、心の奥に小さな火が灯ったような心地になるのだった。



 戦争の足音が近づく昭和十七年の秋、勝利がぽつりと口にする。


「戦争に行く前に、きみに頼みたいことがある」

「……はい」

「俺と、結婚してくれないか」


 マサ子は、静かにうなずいた。


 嬉しいとか、驚きとか、そんな言葉より先に、「この人のそばにいたい」と思った。


 

 マサ子はすぐに子供を身籠ったが、勝利はその時すでに軍服を着ていて、マサ子の手を握ったのは、出立の日のそれが最後だった。


 そして昭和十八年十一月十五日、浩が生まれた。


 勝利は弘司の顔を知らずに戦地へ旅立った。

 それでもマサ子は、「帰ってくる」と信じて、息子を育ててきた。

 米のとぎ汁でしのいだあの日々——今でも、夢に見る。



 そして訃報。

 夫の戦死が知らされたとき、弘司は二歳。

 マサ子は訃報を聞いてもただ押し黙り、食器をひとつひとつ、砕いていった。


 誰にも自分の心に触れて欲しくなかった。

 浩の泣き声さえ、時に自分を責めているように聞こえた。


 そのとき、支えてくれたのが——清だった。


 勝利の弟。あの頃まだ若く、戦争に行けなかったことで人目を避けていた清は何も言わず、ただ無言でそばにいてくれた。



「……俺が弘司の父親になる」

 そう言って、マサ子と弘司を抱いて、着のみ着のままで火の降る東京を後にした。


 戦争が終わり、疎開先から戻って来た町屋の下宿。鉄工所。

 その狭い部屋で、清は寝る間も惜しんで働き、夜中に帰ってきては、愛おしそうに弘司の頭をなでていた。


 マサ子は知っていた。

 清がずっと、自分を見ていたこと。

 勝利を選んだあの日から、ずっと——


 それでもマサ子は、母だった。

 弘司の母であり、清の兄嫁であり、亡き夫の妻だった。


 でもある日、数年ぶりに再会したしげが、不意にマサ子を見てポツリと言った。


「マサ子。あんた、やっと女の顔になったねぇ」



 私はその言葉に、涙が止まらなくなった。

 心の底で、私も“愛し愛されたかった”のだと知った。


 昭和二十五年、清との子・孝司が生まれ、そしてわずか三ヶ月で死んだ。

 母乳が出ず米のとぎ汁を与え続けた末、栄養失調で枯れるように亡くなった孝司。誰からも責められることはなかったが、自分で自分を責め続けた。心が抉られるようだった。


「長男は、二人いらない」

 清がそう言ったとき、私は黙って泣いた。


 それでも清は、和子が生まれたとき、「女の子が欲しかったんだ」と、泣いて笑った。



 ——私は、母であり、女になった。



 今では、弘司ももう小学二年生。

「おとうとおかあがいたから、ぼくはがっこうにいけるんだ」

 そう言ってくれる。

 和子も元気に笑う。

 清は、汗にまみれて図面を描いている。



 私は、いま——静かに、しあわせだ。



 戦争に奪われたものは、もう戻らない。

 でも、しずかな愛と幸福を、ひとつだけ、手に入れた。

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