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回想 白い背中

 旋盤の音が止んだ工場の休憩時間、清はふと、鉄くずをかき集める手を止めた。

 小窓の向こうに、春の薄い陽が射しこんでいる。

 東京・町屋。鉄と埃と煤煙に包まれたこの町にも、ようやく暖かさが戻ってきた。



……風の匂いが、なぜだか、故郷の春に似ていた。



 横浜の生麦で、十一人兄弟の七番目として育った少年時代。

 弟や妹の泣き声がいつも家のどこかから聞こえていた。

 父は無口な炭焼きで、母は働き通しの人だった。



 清がいちばん憧れていたのは、長兄の勝利だった。



 勝利は、近所でも評判の“利口で絵の上手い兄ちゃん”だった。

 学校でも教師に一目置かれ、油絵のコンクールで賞をもらったときは、町の新聞にも載った。


 

「この兄貴、すげぇな……」

 子どもながら、心底そう思った。



 だけど、清は兄とは正反対の子どもだった。

 そろばんも、算術も嫌い。

 文字の練習より、野山を駆け回るほうが性に合っていた。


 

 ときには学校をさぼって、川べりで魚を追って、泥だらけになって帰る。

 その川で、一度、本当に死にかけた。


 

 急に流れが強くなって足を取られ、水中に引きずり込まれた。

 気づけば、兄・勝利が胸ぐらを掴んで岸に引き上げていた。


「バカヤロウ、何かあったらどうすんだ!」

 勝利の声は怒鳴っていたが、腕は震えていた。


 その日以来、清の肺には“影”が残った。

 深く息を吸うと、いつもどこかに薄い痛みがあった。


 

(俺は、戦争には行けねぇな……)

 それを実感したのは、二十歳の頃だった。



 それでも兄は、何も言わなかった。

 “あの兄”だからこそ、責めなかった。

 絵を描き続けながら、家族の面倒も見て、奉公に出た妹たちの仕送りまでしていた。


 

 マサ子がうちに来たのは、その少しあとだった。


 姉であるしげが東京から呼び寄せた“お手伝い”としてやって来たのは、細い体で背筋をまっすぐにしていたまだ幼さの残る女の子。

 清はすぐに彼女の心の美しさに気がついた。初めて会った時から、気になる存在だった。


 でも、何も言わなかった。

 兄が彼女を選んだときも、黙っていた。


 

 そして昭和十八年。兄・勝利は出征した。

 マサ子のお腹の中には弘司がいた。

 清はその頃、家族を支えるため、昼夜通しで懸命に働いていた。勝利がいない分、命を削るように毎日必死に、なんでもやった。


 故郷の町が空襲で燃えることはなかったが、東京からの空の音は届いていた。

 勝利からの手紙は三通だけ。

 最後の手紙には、こうあった。



「清へ。俺はまだ、生きてる。おまえも、息を吸って、絵を描いてくれ。俺が帰ったら、おまえの描いた家族の絵を見せてくれ」



 それきり、兄は帰ってこなかった。


 


 清はそれからも絵を描き続けた。

 水彩で、鉄工所の部品を、町屋の瓦屋根を、弘司の、マサ子の笑顔を——

 兄の代わりに生きるつもりだった。


 兄の死を知らされたとき、マサ子はまだ産後の床に伏せていた。

 弘司は赤ん坊で、清は何も言えなかった。


 その夜、一人で川べりに行って、兄の名前を呼んだ。


(なんであの時、俺が溺れて戦争に行けない体になったんだ……。俺と兄貴が逆だったら)


 

 それでも、生きていたのは自分だった。



「……山中さん、図面、届いてますよ」

 ふと声がして、清は小窓の景色から意識を戻す。


「すまん、いま行く」


 席に戻りながら、ふと、兄と歩いた雪の山道を思い出す。


 

 白く染まった杉林の中で、勝利がふと立ち止まり、「この山、いつか描いてみたいな」と言った背中——


 


 あの背中が、清にとっての“人生の指標”だった。


 


 清は、図面の上に鉛筆を置く。そして、そっとつぶやいた。


「兄貴。……俺、まだ描いてるよ」


 鉄のにおいに混じって、どこかに雪の日の匂いが漂った気がした。

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