第十四話 火花の中で
昼過ぎの町屋は、いつも埃っぽい。
路地の隅に干された作業服、洗濯物の間を縫って自転車が行き交う。
どこかから鉄を打つ音が聞こえると、子どもたちが「またあのおじさんだ」と覗き込む。
清が勤めているのは、町屋駅近くの鉄工所だ。
戦時中は軍需向けの整備工場だったが、今は民間の機械修理・製缶・再設計などを一手に引き受ける“なんでも屋”。
鉄と油の匂いに包まれた作業場では、トンカンと鋼材を打つ音、ガス溶接の火花、旋盤の軋む音が絶えない。
清は、旋盤係の一人としては異色の存在だった。
彼の特技は、「実物から図面を起こす」こと。
図面がない。輸入部品も手に入らない。——ならば自分で描き起こし、削り出してしまえ。
それが清のやり方だった。
作業台の上には、使い古されたコンパス、三角定規、分度器、そして分厚いスケッチ帳。
そこには写真のように精緻な部品の断面図、寸法入りの設計が描かれていた。
「……これ、ほんとに手で描いたんですか?」
若い工員の藤村が、恐る恐る訊ねる。
清はペンを止めずに答えた。
「ああ。寸法さえ合えば、図面は言葉より正直だ」
昭和三十三年。戦後復興は加速し、高度経済成長が動き始めていた。
電気冷蔵庫、テレビ、洗濯機が“三種の神器”と呼ばれ、大企業が設備投資を進めるなか、町工場はその下支えとなっていた。
だが、清のような町の鉄工所では、最新機械もなければ、高学歴の設計士もいない。
頼れるのは、自分の「目」と「手」と「根気」だけだ。
「この部品、アメリカの機械用のカムだそうです。会社が図面取り寄せたけど、英語でよくわからなくて」
「じゃあ、バラして、測る。摩耗してる箇所だけ補正して作る」
清は黙々と部品を分解し、定規を当て、ノギスを使い、紙に図形を描いていく。
計算機などまだ高価で、すべて手計算。
それでも、彼が手がけた部品はいつもピタリと収まり、再び機械を動かした。
「町屋の“手書き設計士”ですよ」
藤村が工場長に笑って言うと、工場長はニヤリとした。
「ほんと、ありがたい存在だよ。機械ってのは、“動かす手”がいちばん大事なんだ」
昼休み、清は缶詰のご飯をかき込みながら、ふと空を見た。
隣の屋根から、どこかの家のラジオが聞こえてくる。
「本日の天気は晴れ。東京地方、明日から気温が下がる見込みです——」
平凡な放送。それが、どれほど貴重なことか。
(……爆撃のサイレンじゃなくて、天気予報か)
それだけで、清は静かに笑った。
仕事終わり、溶接面のすすをタオルで拭きながら、彼は職場の隅にある小さな机に向かった。
そこには新しい図面が置かれている。モーター部品の再設計依頼だ。
「……この厚み、旧型と違うな」
清は何度も現物と照らし合わせ、修正を加えていく。
はじめは悩んでいた鉛筆の線が、時間とともに力強く命を宿していく。
隣の藤村が思わず声を漏らした。
「……ほんと、機械と話してるみたいですね、山中さん」
清は少しだけ笑った。
「声は聞こえねぇけど、黙って見ていれば教えてくれる。壊れ方で、“どこが苦しかったか”分かるんだ」
その夜、自宅に帰ると、弘司が宿題の漢字練習をしていた。
和子は積み木で遊びながら、マサ子の台所の背を見ていた。
「ただいま」
清が言うと、子どもたちがぱっと顔を上げた。
「おかえりー!」
夕飯は大根の味噌煮と焼き魚、そしてマサ子が作った卵焼き。
食卓には、おひつの湯気と、家族の笑い声があった。
「おとう、今日も図面描いた?」
「描いたぞ。新しい機械のだ」
「ぼくも、えをかいたよ。おとうのしごとば」
弘司が見せたのは、墨汁とクレヨンで描いた“鉄工所”の絵。
父の横顔と、飛び散る火花が、力強く描かれていた。
清は言葉もなく、その絵を見つめた。
そして、そっと弘司の頭をなでた。
町屋の空は暗く、星は少なかったが、
この家にはたしかに“未来を描く手”があった。
火花のなかで生きている。
それが、彼の誇りだった。