表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/34

第十四話 火花の中で

 昼過ぎの町屋は、いつも埃っぽい。

 路地の隅に干された作業服、洗濯物の間を縫って自転車が行き交う。

 どこかから鉄を打つ音が聞こえると、子どもたちが「またあのおじさんだ」と覗き込む。


 清が勤めているのは、町屋駅近くの鉄工所だ。

 戦時中は軍需向けの整備工場だったが、今は民間の機械修理・製缶・再設計などを一手に引き受ける“なんでも屋”。


 


 鉄と油の匂いに包まれた作業場では、トンカンと鋼材を打つ音、ガス溶接の火花、旋盤の軋む音が絶えない。


 清は、旋盤係の一人としては異色の存在だった。


 彼の特技は、「実物から図面を起こす」こと。

 図面がない。輸入部品も手に入らない。——ならば自分で描き起こし、削り出してしまえ。

 それが清のやり方だった。



 作業台の上には、使い古されたコンパス、三角定規、分度器、そして分厚いスケッチ帳。

 そこには写真のように精緻な部品の断面図、寸法入りの設計が描かれていた。


「……これ、ほんとに手で描いたんですか?」


 若い工員の藤村が、恐る恐る訊ねる。

 清はペンを止めずに答えた。


「ああ。寸法さえ合えば、図面は言葉より正直だ」


 

 昭和三十三年。戦後復興は加速し、高度経済成長が動き始めていた。

 電気冷蔵庫、テレビ、洗濯機が“三種の神器”と呼ばれ、大企業が設備投資を進めるなか、町工場はその下支えとなっていた。


 

 だが、清のような町の鉄工所では、最新機械もなければ、高学歴の設計士もいない。

 頼れるのは、自分の「目」と「手」と「根気」だけだ。


「この部品、アメリカの機械用のカムだそうです。会社が図面取り寄せたけど、英語でよくわからなくて」


「じゃあ、バラして、測る。摩耗してる箇所だけ補正して作る」


 清は黙々と部品を分解し、定規を当て、ノギスを使い、紙に図形を描いていく。

 計算機などまだ高価で、すべて手計算。

 それでも、彼が手がけた部品はいつもピタリと収まり、再び機械を動かした。


「町屋の“手書き設計士”ですよ」

 藤村が工場長に笑って言うと、工場長はニヤリとした。


「ほんと、ありがたい存在だよ。機械ってのは、“動かす手”がいちばん大事なんだ」


 


 昼休み、清は缶詰のご飯をかき込みながら、ふと空を見た。

 隣の屋根から、どこかの家のラジオが聞こえてくる。


「本日の天気は晴れ。東京地方、明日から気温が下がる見込みです——」


 平凡な放送。それが、どれほど貴重なことか。


(……爆撃のサイレンじゃなくて、天気予報か)


 それだけで、清は静かに笑った。


 


 仕事終わり、溶接面のすすをタオルで拭きながら、彼は職場の隅にある小さな机に向かった。

 そこには新しい図面が置かれている。モーター部品の再設計依頼だ。


「……この厚み、旧型と違うな」

 清は何度も現物と照らし合わせ、修正を加えていく。

 はじめは悩んでいた鉛筆の線が、時間とともに力強く命を宿していく。


 隣の藤村が思わず声を漏らした。


「……ほんと、機械と話してるみたいですね、山中さん」


 清は少しだけ笑った。


「声は聞こえねぇけど、黙って見ていれば教えてくれる。壊れ方で、“どこが苦しかったか”分かるんだ」


 


 その夜、自宅に帰ると、弘司が宿題の漢字練習をしていた。

 和子は積み木で遊びながら、マサ子の台所の背を見ていた。


「ただいま」

 清が言うと、子どもたちがぱっと顔を上げた。


「おかえりー!」


 夕飯は大根の味噌煮と焼き魚、そしてマサ子が作った卵焼き。

 食卓には、おひつの湯気と、家族の笑い声があった。


「おとう、今日も図面描いた?」


「描いたぞ。新しい機械のだ」


「ぼくも、えをかいたよ。おとうのしごとば」


 弘司が見せたのは、墨汁とクレヨンで描いた“鉄工所”の絵。

 父の横顔と、飛び散る火花が、力強く描かれていた。


 清は言葉もなく、その絵を見つめた。

 そして、そっと弘司の頭をなでた。


 町屋の空は暗く、星は少なかったが、

 この家にはたしかに“未来を描く手”があった。


 火花のなかで生きている。

 それが、彼の誇りだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ