第十三話 一歩一歩
桜はまだ蕾だった。
東京・荒川の空はどんよりとした曇り空で、風は少し冷たい。
町屋の路地の一角には、母が手縫いした黒い学生服を着て、小さな背中に真新しいランドセルを背負った少年が立っていた。
「……こう、背筋伸ばしてごらん」
清が背後から声をかけると、浩は慌てて体をピンと伸ばした。
昭和三十二年、四月。
弘司、六歳。
小学校の入学式の日。
「弘司、ハンカチ持ったの? 荷物は……うん、大丈夫ね」
マサ子は弘司の襟元を整えながら、繰り返しチェックしていた。
「……もう、いいよ、おかあ。おそくなっちゃう」
「そうね……でも、今日は大事な日だから」
弘司の黒い帽子の端をそっと整えたマサ子の指は、どこか震えていた。
その震えに気づいたのは、清だった。
(あの頃は……想像もできなかったな)
勝利の戦死。
孝司の夭折。
極貧のなかで、浩を守るためにあらゆる仕事をした。
マサ子の母乳も出なかった。米のとぎ汁でなんとか命をつないだ日々——
それを越えて、今、弘司が“学ぶ”場所へ向かおうとしている。
「……おまえ、教室に入ったら、先生にちゃんとあいさつするんだぞ」
「うん」
「それから、いじめられそうになったら……にげてもいい。泣いたっていい。
でも、帰ってきてから話してくれ」
清は言葉少なに、弘司の肩に手を置いた。
弘司は、うなずいた。
小さな唇をきゅっと結び、じっと父を見上げた。
「おとう……がっこうって、こわい?」
「そうだな、人によっては、こわいな」
清はふっと笑った。
「でも、お前なら大丈夫だ。……おとうだって、こわかったけど、いまこうして、ちゃんと生きてる」
弘司の瞳が、ぱちぱちと瞬きをした。
それから、小さな声で言った。
「ぼく、ちゃんと、まなぶよ。……おとうと、おかあが、まもってくれたから」
マサ子は、手元の小さなハンカチをぎゅっと握った。
弘司の言葉が、胸の奥深くまで染み込んできた。
(この子は、戦争の残酷さを知らない。けれど、貧しさと、痛みと、家族のやさしさを、全部覚えてる)
出征した勝利の背中を見送った日、
命をなくした孝司をこの胸に抱いた日、
冷たい土間で、浩の小さな手を洗った日——
全部が今日につながっていた。
入学式の校門には、たくさんの親子連れが集まっていた。
それぞれが新品の服を着て、少しだけよそ行きの笑顔をしている。
弘司が一歩、校門をまたいだ。
その瞬間、マサ子の胸がきゅっとなった。
(……ああ、もうこの子は、“外の世界”に入ったんだ)
校庭を歩く弘司の背中を、清と並んで見送る。
小さなランドセル。しわひとつない学生服。
緊張しながらも、しっかり歩く足。
「おとう」
ふいに、弘司が振り返った。
「きょう、がっこうで、おえかきあるかな。おとうみたいに、うまくなりたい」
清は、言葉が出なかった。
数秒後、少しだけ顔を背けて、ぽつりと答えた。
「……おまえが描く絵なら、なんだって、いい絵になる」
そして、その背中が校舎へと消えていくのを、マサ子と清はしばらく黙って見つめていた。
その日、帰宅してランドセルを開いた弘司は、
画用紙いっぱいにクレヨンで描いた絵を見せてきた。
「これ、がっこう」
ぎこちない線、飛び跳ねるような色彩。
でも、その中央にしっかりと描かれていたのは、
両手を広げて笑っている“おとう”と“おかあ”だった。
——その絵を見た清は、何も言わず、そっと台所に立った。
目の奥が、じんわりと熱くなっていた。
「……この子の未来に、戦争はもういらない」
小さくつぶやいたその声を、マサ子はそっと聞いていた。
弘司の初めての一歩は、家族全員にとっての、希望へのはじめの一歩だった。