第十二話 当たり前の日
朝五時。
町屋の空は、灰色から群青に変わるころだった。
鉄工所の裏手にある長屋に、炭のにおいと味噌汁の湯気が立ちのぼる。
「弘司、起きて。朝だよ」
マサ子が声をかけると、蒲団の中で弘司がぐずった。
「まだねむい……」
「お父さんはもうお仕事行ったよ。弘司もお米といでくれるんでしょ?」
「……とぐ……」
小さな手で米を研ぎ、水を張る弘司の姿を見ながら、マサ子は鍋に火を入れた。
囲炉裏のかわりに、今は小さな七輪と石油コンロ。
でも、煙とともに立ち上がる朝の音と匂いは、今も昔もどこか落ち着くものだった。
清はもう仕事場にいた。
鉄工所の片隅に置かれた旋盤の前で、鋼材の芯を固定し、図面を片手に目を細めている。
手のひらには厚くなったマメ、火傷の痕。
けれど、その指先で描く図面は、まるで写真のように精緻だった。
「部長、こっちの部品見てください。寸法が輸入部品と合ってなくて……」
「じゃあ実物から測って書く。治具も作り直しになるな……」
言葉少なだが、部下たちは清をよく頼った。
古い外国製の製缶機械や部品は、もうカタログも残っていない。
それを、現物から図面を起こし、加工して再生させる――それが清の仕事だった。
昼には、マサ子が浩と和子を連れてお弁当を届けに来た。
「はい、これ。おむすびとお漬物だけど……」
「ありがとう。……和子、寝てる?」
「おなかいっぱいで、ぐっすり。弘司は……お父さんにあげるって」
清の手の中に、弘司が握った小さなおむすびが乗った。
まだ形もいびつで、ごはんもぽろぽろだった。
「これは……うまそうだなあ」
「ほんと?」
「ほんとだよ。お父さん、これがあるから午後もがんばれる」
弘司は顔を赤くして、そっとマサ子の背に隠れた。
和子はよく笑う子だった。
泣くとすぐ弘司があやし、清が帰ってくると真っ先に腕を伸ばした。
「女の子がほしかったんだ」
清はよくそう言って、和子を可愛がり胸に抱いた。
戦火をくぐり、命を落とし、生まれ直した家族。
毎日が綱渡りのような暮らしだったけれど、夕飯を囲んで笑う声がある。
弘司が読み上げた教科書の音読。
マサ子が縫った古着のズボン。
清が描いた手描きの機械部品のスケッチ。
和子の寝息。
それらすべてが、失うまいと誓った「命の証」だった。
夜、清はランプの明かりの下で、弘司の寝顔を見ていた。
「……ありがとうな、弘司。お前がいてくれて、ほんとうによかった」
そして隣では、マサ子が和子の小さな手を握っていた。
「——あたりまえの一日が、いちばん贅沢なんだって、やっと分かってきた」
誰にも評価されなくていい。
小さな幸せの積み重ねが、戦争に奪われた「未来」を少しずつ取り戻していく。
町屋の空には、今日も煙がのぼる。
明日も、ごくあたりまえに朝が来ますように——そんな願いを胸に、家族は温かな1日を静かに終えた。