第十一話 和やかな未来に
昭和二十八年、二月十三日。
その朝、空はどんよりと曇っていたが、マサ子の胸には、あたたかい光が灯っていた。
小さな産声が上がったのは、午前十一時過ぎ。
長く、長く感じた陣痛の末に、生まれてきたのは、女の子だった。
助産婦さんが「……元気な女の子ですよ。よう泣くわね」と笑顔で言う。戦後、生まれる子供は皆、希望そのものだった。
(この泣き声が、こんなに嬉しいなんて)
マサ子は、胸元で布に包まれた小さな命を、そっと見下ろした。
真っ赤な顔、小さく動く指、湿った髪。
それは、生きているという証であり、何よりの贈り物だった。
「……和子って名前はどうだい?」
清が呟いたのは、その日の夕方だった。
「“和やかに生きてほしい”って。もう、争いの時代は終わったんだって……この子が生きる時代は、そうであってほしいから」
マサ子は心からうなずいた。
けれど、心の奥では言葉にできない思いが渦巻いていた。
(この子が、もし男の子だったら……私はあのときの痛みを、もう一度味わったかもしれない)
(でも、この子は“違う”)
和子がその澄んだ色をした目を開いたとき、マサ子の頬に涙が一筋、つっと落ちた。
「……ありがとう。来てくれて、本当にありがとうね」
夜になって、仕事を終えて清が帰ってきた。
まだ作業服のまま、そっと和室のふすまを開け、赤子の寝顔を見下ろした。
「……女の子が欲しかったんだ」
ぽつりと、誰にも聞かれないような声で清が言った。
マサ子は驚いて、寝床から顔を上げた。
「え?」
「俺、ずっと思ってた。……女の子がいたら、人生が少しやさしくなるんじゃないかって」
清は、手をのばして和子の小さな指に触れた。
その指が、きゅっと彼の指を握った瞬間、清は口をつぐみ、目尻をぬぐった。
「この子が大人になるまで……俺、絶対に死なない。死ねない」
マサ子はその言葉を、胸にしまった。
誰かを守ると誓う男の姿は、どこか勝利に似ていて、でも、確かに違っていた。
この人は、私の今を守ってくれている。
和子が泣き出すと、弘司がやってきて、戸口の向こうから顔をのぞかせてくる。
「おかあ、おとう。赤ちゃん、また泣いてるよ」
「お兄ちゃん、だもんね」
マサ子がそう言うと、弘司は得意げに胸を張った。
清も重ねて言う。
「……お兄ちゃん。頼りにしてるぞ」
その夜、炭火の温もりの中で、小さな家の中に四つの寝息が重なった。
弘司、和子、マサ子——そして、清の吐息もまた、安らかだった。
灯のともった町屋の空に、もう戦の影は見えなくなりつつあった。
小さな命が、この家に「未来」を連れてきた。