第十話 守れなかった命
昭和二十五年の春は、遅く、寒かった。
疎開先から東京の町屋に引っ越した後も、生活はまだ“戦後”だった。
配給はさらに細り、砂糖は手に入らず、米は買えず、満足な食料はなく、雨が降れば雨漏りがした。
それでも、マサ子は少しずつ笑うようになっていた。弘司の手を引き、洗濯物を干し、おはじきで遊んだりしていた。
そんな中で、もう一つの命が芽吹いた。
「……あなた。赤ちゃんができました」
その言葉を聞いたとき、清は声を出さずにうなずいた。
けれど、その瞳はじっと火鉢の火を見つめていて、何かをこらえるようだった。
やがて迎えた冬の夜、雪混じりの冷たい風が吹く日のこと。
二人の長男・孝司は、裸電球の明かりの下でひっそりとこの世に生まれた。
そう産声をあげた——確かに、生きようとしていた。
けれど、マサ子の身体は、もう限界だった。
母乳が、出なかった。
マサ子も清も毎日、火鉢の上で米を研いでは、とぎ汁を白湯で薄めて、匙で孝司の口に運ぶ。
弘司のときと同じように——そう思いたかった。
けれど、孝司の身体は弘司よりも小さく、目もなかなか開かなかった。
泣き声は、すぐにかすれてしまった。
「……せめて、ミルクが……」
そう願っても、買う金はなかった。闇市では売られていたが、清の給料ではとても手が届かない。
清は毎日遅くまで鉄工所に残り、部品の再設計をしながら、自作の部品カタログを必死に描き続けた。だが。
それでも——届かなかった。
三月、孝司は静かに息を引き取った。
わずか、生後三ヶ月。その短すぎる命。
マサ子は、孝司が死んだことを受け入れられず、動けなかった。
その日、布団の中で孝司を抱いたまま、何時間も目を閉じていた。
清は何も言わなかった。ただそっと、二人を毛布で包み込んだ。
夜、囲炉裏の火がぱちぱちと音を立てていて、浩はすやすやと眠っていた。
清は、ぼんやりと火を見ながら、ぽつりとつぶやく。
「……長男は、二人いらない」
マサ子ははっと顔を上げた。
清はまだ火を見ていた。
「弘司が……兄貴の子だってこと、俺はずっと胸にしまってた。
でも、孝司が……逝って……わかったんだ。
——俺にとっては、弘司が“長男”なんだって」
言葉に、迷いはなかった。
静かで、苦くて、優しくて、痛かった。
「だから……俺は、弘司を守る。孝司のぶんまで。兄貴のぶんまで。……俺の手で、絶対に」
マサ子は、膝の上の小さな遺体を、もう一度見つめた。
まだ冷めきらないその身体を、そっと包み込んだ。
「……ありがとう、孝司。……生まれてきてくれて、ありがとうね」
この子の命を、無駄にしない。
この子の死を、ただの不幸にはしたくない。
母として。妻として。そして人間として。
マサ子は、もう一度立ち上がる決意をした。
孝司の死。それが清とマサ子の「戦後」の、本当の始まりだった。