第九話 ひとつの決意
畳の上に、和紙が広げてある。
それは書きかけの婚姻届だった。
墨のにおいが、胸の奥をざわつかせる。
清の名前はすでに書かれており、筆頭者欄にある「弘司」の文字。
マサ子は、自分の名前を書こうと筆を持っていたが、その手を止めていた。
勝利が逝って、もうすぐ三年になる。
弘司はもう言葉も覚えた。ひらがなのような文字も少しずつ書けるようになった。貧しい生活は変わらなかったけれど、小さな幸せが少しずつ増え、今では家族の笑い声も聞こえる。
——なのに、まだ迷いが消えなかった。
囲炉裏のそばで、清が鉄の部品を磨いていた。
町屋に戻ってからも、清は毎日働きづめだった。
油にまみれた指で、図面を描くようにスケッチ帳をなぞる姿。
それを見ていると、言葉にならない感情がこみあげてくる。
(私は……この人を、いつから“好き”になったんだろう)
清はいつだって家族だった。
勝利の“代わり”ではないと、頭では分かってはいるのに、自然に頼りにしてしまう自分がいた。
けれど、「愛しています」と素直に口に出すには、あまりに多くを失いすぎていた。
「……迷ってるのか?」
不意に、清が言った。
磨いていた部品の手を止め、こちらを見つめる。
「……はい」
マサ子はうつむいたまま答えた。
嘘をついても、清にはきっと通じない。
「……俺は、迷わなかった」
「……」
「マサ子と弘司を守るって、“自分の意志”で選んだ。兄貴の代わりじゃなく、俺自身で。
弘司が俺を『おとうさん』って呼んだ日から、もう決まってたんだ」
言葉のひとつひとつが、胸に染みた。
冬の火鉢の火よりも、あたたかかった。
「……でも、私、今でも……ときどき夢に見るんです。
勝利さんが、帰ってくる夢。
“ただいま”って、笑って……弘司を抱いて……私の隣に座ってるんです」
涙がぽとりと膝に落ちた。
それを見ても、清は何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと正座して、深く頭を下げた。
「その夢を、俺が奪うわけにはいかない。
でも、俺は現実のなかで、マサ子と弘司を守る。それが、俺の“生きてる”理由なんだ」
マサ子は驚いて、顔をあげる。
清の額に、汗がにじんでいた。
「……じゃあ、一つだけ、お願いがあります」
「うん」
「約束してください。——私が夢の中で勝利さんを思い出して泣いても、
“それでいい”って、言ってくれる人でいてください」
清は、黙ってうなずいた。
そして、真っすぐに言った。
「何度でも、言うよ。
……それでいい。
俺は、そういう人になりたいから」
その夜、マサ子はようやく筆をとった。
婚姻届の最後の一筆に、そっと自分の名前を書き添えた。
過去をなかったことにはできない。
けれど、これからの日々を誠実に積み重ねていくことはできる。
——それが、彼女の選んだ「再婚」だった。
そして、清の「約束」は、その後の長い歳月を通して、一度も破られることはなかった。