第一話 雪積もる旅立ち
夜が明ける少し前、雪は静かに降り始め、地面を白く覆っていった。
家の中は冷え切っていて、マサ子は囲炉裏の灰の中から小さな炭を見つけては、火を起こそうと何度も息を吹きかける。
「お姉、さぶい……」
障子の向こうから、弟のサトルが眠たそうに声をあげた。年の離れた弟たちにとって、マサ子はもう“姉”ではなく、小さな“母”のようだった。
「ちょっと待ってね。すぐ火がつくから」
マサ子は赤くなった指先をこすりながら、炭をかき集める。父は薪を売るため、夜明け前に山へと出ていった。母がいなくなってから、家の中は火が消えてしまったかのように笑い声が消えていた。
弟のサトルとジロウに朝粥を食べさせ、洗い物を終えると、マサ子はやっと自分の椀を手に取る。
「お姉、今日はそろばん行けるの?」
サトルが箸を握ったまま尋ねてくる。マサ子は少しだけ笑って見せた。
「うん。午後だけ、ね。行ってる間、ジロウのこと頼んだよ」
「うん。……でもさ、先生が言ってた。マサちゃん、頭いいのに、もったいないって」
「そんなの、どうでもいいよ。うちはみんなで生きてくのがまず一番だもん」
それが、マサ子の口癖になっていた。
——母さんがいた頃は、どうだったっけ。
いつも洗い場で冷えた手をこすりながら、母はうっすらと笑っていた。でも、ある日を境に笑わなくなり、やがて井戸の中で見つかった。あの日の朝の匂い、雪の色、弟たちの泣き声。すべてが凍りついたまま、マサ子の胸に残っていた。
その日の夕暮れ、雪の中を隣の婆さまが突然訪ねてきた。母が亡くなったあと、時々様子を見にきてくれる親戚の一人だった。
「マサ、おるかい?」
「は、はい!」
玄関を開けると、婆さまは一枚の手紙を差し出してきた。古びた封筒には墨の字がにじんでいる。
「東京のしげさんからじゃ。奉公人を探してるんだと。あんた……行くかい?」
マサ子は一瞬、言葉が出なかった。
「東京……?」
「食いぶちがひとつ減ると思えば、父ちゃんも助かる。おらは、悪くない話だと思うがねぇ」
マサ子はうつむいた。手紙の端を指先でなぞる。
東京。そこはとても遠くて、雪の降らない場所。父もいない、弟たちとも遠く離れてしまう見たこともない都会。
想像することもできない提案に、マサ子はただその手紙を見つめることしかできなかった。
その晩、しげさんからの手紙を見せた後、父は囲炉裏の前で一言だけ言った。
「マサ。行ってこい」
ただ、それだけだった。
マサ子は頷くしかなかった。何の言葉も出てこない。何か話せば、泣いてしまいそうだったから。
(東京に行けば、少しは……家の役に立てる)
それだけを心の中で繰り返すことしかできなかった。
数日後の早朝。数枚の着替えとぎりぎりの交通費というごく少ない荷物を背負い、まだ雪が積もる道を、マサ子は一歩踏み出した。
縁側で見送るサトルとジロウに手を振り、なんとか笑って見せる。
「お姉、気ぃつけて!」
「ちゃんとご飯食べるんだよ!」
その声を背に、マサ子は静かに歩き出した。足元の雪がぎゅ、ぎゅ、と音を立てる。
(…みんな、元気で)
それが、マサ子の記憶に残る、東京行きの朝の静かな旅立ちだった。
祖母の激動の人生を忘れたくなくて書きました。誰かの心に響きますように。