Primo d'Aprile
ルーラ王国王都【レンハイム】
〝音楽の都〟とも名高い、この地には、多くの大望を胸に抱く若者が集まった。
芸術的才能――とりわけ、音楽家の庇護に熱心なこの国では、腕さえ認められれば、ありふれた身分のものであろうとも、上流階級同様の扱いを受けることができる。
当然ながら、その中で機会を手にする者は、ごく一握りだが、彼らの存在が世の人々が思い浮かべる、〝レンハイムらしい景色〟を形作る一助となっていることは、疑いようのない事実だ。
王都南西部は、まさに音楽文化の醸造所となっていた。
劇場音楽家が多く暮らすほか、各地渡り歩いてきた若き才人が、入れ替わり立ち替わり訪れては、人知れず去ってゆく。
一日を通して、極彩色の旋律が奏でられ、自由奔放な恋人とのひとときに花を添え、一家言あるつもりの批評家たちの自尊心をくすぐってみせる。
街の南西部の中心に位置する一つの劇場。
光の射さない舞台袖には、一人の青年が控えていた。
男が耳を澄ませば、耳朶を打つのは荘厳に奏でられる演奏、蒼穹さえも貫き、割らんばかりの詠唱――。
今、客席は声を出すことは叶わなくとも、大粒の涙を流し、この瞬間、ここに存在することを神に感謝する観客で、溢れかえっているだろう。
彼は曇空のような灰色の瞳を閉じると、両手を指揮者のように大仰に振るってみせる。
肩先まで襟足が伸ばされた赤銅色の髪が、宝石のような汗とともに宙を舞い、きめ細やかな白い肌は、熱を帯びて徐々に朱みが差してゆく。
音を支配するわけでもなければ、追従するわけでもない。
彼にとって音は、ともに楽しみ、喜び、悲しみ、泣き、そして踊る〝恋人〟だった。
――「座長、お時間です」
〝コトン〟と、グラスに氷が落とされたかのように響いた声に男――ロレンツォの思考は、一瞬で鮮明に研ぎ澄まされる。
もう少し、この特別な時間に浸っていたかったが、そう悠長なことも言ってはいられない。
次は、こちらが観客を魅せなければならない――。
「あぁ、わかった」
彼は、酒場の女性から人好きのすると評判の微笑みを、口元に浮かべてみせると、壁に掛けてあった杖を手に取った。
「お待ちください、服が乱れています」
目前で、せっせと燕尾服のタイを締めている女性は、つい先日、二十歳になったばかりだ。
自分と四つしか変わらない彼女に、今やすっかりと世話になってしまっている。
彼女は最後にマントの皺を確認すると、満足げな表情を浮かべた。
「座長、貴方に神の祝福があらんことを」
彼は帽子のツバを押さえ、頭をわずかに下げて感謝の意を示した。
それと同時に、真紅の緞帳が、ゆるやかに開き始める。
ジレから白銀の懐中時計を取り出して蓋を開くと、そこには彼に瓜二つの紳士と、美しい女性が肩を寄せ合い、幸せそうな微笑みを浮かべていた。
「さぁ、行こうか。奇術は魔法を超える!!」
舞台へと登場した彼を出迎えたのは、数人の酔っ払いと、舞台に視線すらも向けずに騒ぐ子供達。
そして、それを大声で叱る親だけだった。
帽子から鳩が飛び出そうとも、コインが移動しようとも、客席が盛り上がることはなく、彼の舞台は静かに幕を閉じる。
無名で、腕も至って平凡。
そんな奇術師の舞台を観に来る者など、ほとんど居ないのだ。
◆◇◆◇
劇場の外――。
喧騒とともに隣の劇場――ベルコーレ座の扉から興奮の冷めぬ観客達が出てきた。
ルーラ王国王都【レンハイム】で最たる伝統を持つ劇場から、目と鼻の先にある地震が来れば、一瞬の後に倒壊しそうな劇場――それが、ロレンツォがオーナーを務めるラツィオ座だ。
――「まだ、こんなことをしているの?」
どこか、研ぎ澄まされた剣のような印象を受ける冷たい声に振り向けば、青藍色の髪と同色の鋭い双眸が魅惑的な女性が立っていた。
「ビーチェ、君か」
ベアトリーチェ・グラツィアーニ。
ベルコーレ座を拠点とする〝国王歌劇団〟の歌姫であり、ロレンツォが中退した音楽院の同級生だ。
先ほどの詠唱で、観客を熱狂の渦へと巻き込んでいたのも彼女だ。
彼女は腕を組み、ラツィオ座を一瞥した後に、唇から冷たい息を吐き出した。
「ロロ、考えなおしなさい。あなたには才能があるわ。今からでも音楽の道に戻るべきよ」
「今は、これが僕の道だよ。この劇場を、いつか世界の奇術師が集まり、多くの人を笑顔にする場にしてみせる」
「ロロ……」
彼女らしくもなく、声音は精気を感じさせず、ロロの勘違いでないのならば、それは淋しげな響きを含んでいた。
その秀眉も今は、わずかに下がり、瞳には憂いの色が滲んでいるように思える。
ロレンツォは、彼女が心根の善良な得難い友人であることを理解していた。
同時に一人の音楽に携わっていた者としては、彼女には深い敬意も抱いている。
今も変わらず気にかけてくれる旧友に心中で感謝しつつ、彼女の友情に報いるには、喜ばしい報告をするほかないと思えた。
「今日の歌、素晴らしかった。次の公演は、僕も見に行かせてもらおう」
帽子のツバにそっと手を添え、小さく会釈をすると彼は、その場を立ち去る。
「ロロ、待って――!」
足を止め、振り返った彼の灰色の双眸には、いつも彼が自然と湛えている柔和さは、もはや見られなかった。
その瞳に秘められた何かを感じ取ったのか、ベアトリーチェは左手を腰に当て、諦観を滲ませた苦笑を浮かべる。
小さな嘆息とともに、「仕方ないわね……」という彼女の口癖が、聞こえた気がした。
「今日はエイプリルフール――この国風に言うとPrimod'Aprileよ。嘘が許され、嘘みたいな奇跡でも起きる日」
「後者は、彼のサヴォイア伯爵が、月夜の妖精エリアーデと恋に落ち、連れ去られたという伝説からだったか」
「えぇ、魔法や御伽話よりも、手品に夢中なあなたには無縁かもだけどね。素敵なエイプリルフールを」
◆◇◆◇
杖を片手に携え、紫檀色の燕尾服の裾を春風に靡かせ、ロレンツォは星明かりが照らす石畳の道を、肩で風を切るように歩いてゆく。
ふと、眩惑的な響きを有する旋律が、耳朶を打ち、彼の意識を捕らえた――。
【青薔薇公の庭園の庭薔薇園】
瑠璃紺色の薔薇が一面に咲き誇る、広大な夜の庭園は、〝青薔薇公〟とも名高い、故エンリコ・ロンバルディ公爵へと敬意を捧げて造られた。
月光が照らす庭園の中心には、グランドピアノが置かれていた。
それを演奏する女性は、あまりにも呆気なく、ロレンツォのすべてを奪い去った――。
彼女が鍵盤を弾くたび、艶やかな濡羽色の髪が空を踊り、それは月光の祝福を受けて、瑠璃色のドレスへと着地する。
儚げな長い睫毛の下には、澄んだ紫水晶のような紫色の瞳が、月の光を喰らう悪魔のように妖艶に輝く。
悪魔――いや、もっと高潔で、犯し難い存在。
彼女の演奏は、ここに聴衆が居るのならば、彼らすべての賛美を、羨望を、嫉妬を、そして劣情さえも呼び起こすほどに優美で蠱惑的だった。
彼女は、それらすべてを自身の糧として喰らう、貪欲にして、清廉な月の〝女王〟――。
聴衆が抱くあらゆる感情はすべて、彼らが率先して、彼女への供物として捧げる〝愛〟に他ならない。
その一瞬は永遠のように、永遠はこの一瞬のために。
二人だけの夜会の幕は突如上がり、雲が月を隠すように静かに下りた。
「すばらしい! と言うところでしょうか」
ロレンツォの賛辞と拍手を受けた女性が、ゆっくりと振り返った。
儚げな瞳には、わずかな驚きの色が浮かんでいるようにも見える。
ロレンツォが杖を一振りして、逆手を軽く叩けば、そこに一輪の青薔薇が、淡い光とともに出現した。
彼は口元に悪戯っぽい微笑を浮かべると、その薔薇を彼女へと、うやうやしく差し出す。
「ありがとう」
「いえいえ」
女性は優美な微笑みを口元にたたえて、花を受け取ると、静かに立ち上がった。
「こんばんは、月夜の妖精。僕の名はロレンツォと申します」
「こんばんは、夢の世界の恋人。姓は?」
「あぁ、スミスです」
「ふふふ、あはたはどう見ても、この国の人に見えますが。いいわ、ロレンツォ・スミスさんね。私はアンジェリカ・ヴィヴァルディです」
女性は瑠璃色のドレスを摘んで、綺麗なお辞儀をしてみせる。
「素敵な花を感謝します」
「あなたの演奏への対価としてはあまりにも、ささやかですが。それにしても、ルカトーニの音楽が似合う見事な月夜です。このような特別な夜は、二人の音楽好きが親交を深めるのに申し分ないと思いませんか?」
「ふふ、そうですね。私も、いくつか訪れたいと思っていたところがあるのですが、何分にもこの街にはまだ不慣れなものでして。ご案内してくださる新しい友人が居るのならば、心強いですわ」
◆◇◆◇
月明かりと街灯が照らす、厳かで静謐な王都の街並みは、積み重ねられた歴史が香り立つかのような趣きがある。
肉料理や甘味から装飾品まで、ありとあらゆる露店が立ち並ぶ通りは、一日の最後の活気に満ちていた。
まだ、少年少女と呼べる年代の恋人が手を繋ぎ、天真爛漫な笑い声をあげて、踊るように通りを駆け抜けてゆく。
パシャリ、という音が響き、二人は同時に振り返る。
若い恋人達が走り去る様子を、二十歳を超えたほどの女性が、熱心にカメラに収めているのが視界に入った。
顔を見合わせた三人は自然と口角を上げると、ともに会釈を交わした。
そこには同じ思い出を共有した者たちだけが持ち得る、確かな繋がりがあった。
日常の一瞬に生まれた奇跡のような、魔法のような時間――。
これだけは、奇術では作り出せないのものだ。
ロレンツォは苦笑を浮かべると、少年達が走り去った方へと視線を向ける。
その姿は、既にそこにはなかった。
「素敵な夜を」
「あなた達も」
女性に別れを告げると、二人は再び通りを歩いてゆく。
「先ほど演奏されていた曲は、ルカトーニのピアノソナタ第十一番ですね」
「えぇ、今では愛称で呼ばれる方が多いですが」
「あぁ、――〝月夜の悪魔〟。確かに、あなたの演奏には悪魔が宿っていると言う人も居るでしょう」
「買い被り過ぎです」
「そうでしょうか。最も、僕は悪魔というよりは、〝女王〟という方が相応しいと思いますけどね」
「なぜでしょうか?」
彼女はロレンツォが、露店にて購入したソフトクリームを受け取ると、一言、感謝を伝えた。
ロレンツォはチョコ、彼女は木苺味だった。
「多くの演奏家は、この曲を弾く時に相手の心を自分の世界へと引き込み奪おうとする。まさに〝悪魔〟のようにね。そして、その弾き手の気持ちは、演奏に大なり小なり現れるものです」
「私は違うと?」
「えぇ、あなたの演奏は、あくまで相手に捧げさせるものです。心をね」
「ですが、それは悪魔よりも、もっとタチの悪いものかもしれませんよ?」
彼女はロレンツォの顔を紫水晶のように煌めく瞳で挑戦的に見つめ、顔にかかる髪を手で夜空へと払った。
「なぜです?」
「相手に選ばせるということは、伴う責任もなにもかも背負わせるということですから」
溶けかけた木苺のソフト。
その最後の一口を食べた終えた彼女に、ロレンツォはシルクのハンカチを差し出した。
◆◇◆◇
バー&ダイニング【サルバトーレ】
荘厳な音楽が、店内より流れ聴こえる白い大理石のテラス席にて、ロレンツォ達は向かい合うように座っていた。
アンジェリカが訪れたいと望んだのは、いずれもルカトーニに縁のある場所だった。
ここもまた、彼が構想を練る折によく足を運んでいた店として、当時の外観のままに残されている。
ちらりと、視線だけを左手側の席へと遣れば、香りの強い葉巻を手にした老紳士が、こちらもまた身なりの良い青年へと自身の政治思想を説いているのが見えた。
崇高にして道徳的なる自由主義的価値観と国際化が、我々にもたらしたものによって、真に気高く、偉大な生まれながらに私たちの胸奥に刻み込まれているものが、今、失われつつあるという彼らのいつもの話だ。
青年はまさに感銘を受けたというように、あなたこそは私の人生の師であると紳士を称賛してみせる。
だが、この青年も明日になれば喜々として、街中で演説するジョルジュ・ヴァレンティーニと記念写真を撮るだろう。
決して青年は、紳士を適当に扱っているのではない。
ルーラの人間は若いころは渡り鳥のように移り気、年齢を重ねると、突如として思い出したかのように、愛国心や誇りといったものに関心を向け出すのだ。
二人の会話に耳を傾けながら、ロレンツォとアンジェリカは顔を見合わせて苦笑する。
「最も年齢を重ねても、私たちに生来備わっている楽観的気質がなくなるわけではありません。ピッツァと一杯の葡萄酒、そして音楽があればすぐに難しいことなど忘れるのです。ほら、ご覧なさい」
ロレンツォの視線の先では店の給仕係が、料理と葡萄酒を運んできていた。
それを同様に視界に収めた二人の紳士は、目を輝かせて今日見てきたばかりの舞台の話を始めた。
「これもまさしく、〝典型的なルーラらしい景色
〟というものです」
「私には、すべてのものが新鮮に映ります」
「それでは、この国には本当に最近来たばかりなのですね」
「えぇ、ルーツはこちらにあるのですが。この歳までヴォンで育ちました。それでも音楽をするならルーラ以上の国、レンハイム以上の街はありません」
グラスに残った葡萄酒を飲み干した彼女は、どのような一瞬も見逃さないとでも言わんばかりに、まるで妖精を見つけた少女かのような、やわらかな微笑みを浮かべて周囲をゆっくりと見渡した。
「ルーラは今後数世紀に渡って恨まれそうです。ヴォンから千年に一度の天才を奪ってしまったわけですから」
「気をつけた方が良いですわ。ヴォンは女性でも鉄のドレスを着て戦う国ですもの」
アンジェリカは色素の薄い、たおやかな指で自身の唇をなぞると、とっておきの秘密を打ち明ける子供のように、悪戯めいた微笑をロレンツォへと向けた。
「でしたら、ルーラの男性は手に花束を持って抵抗しましょう」
「ふふ、平和的解決が必要ですね」
「えぇ、ですがヴォンとルーラには大きな共通点がある」
「「どちらも、珈琲の国であること」」
二人の言葉が重なったのは、ちょうど食後の珈琲とデザートが運ばれてきた時だった。
◆◇◆◇
川沿いに佇む、ルカトーニの生家である赤煉瓦の屋敷は陽が沈むと同時にライトアップされる。
既に閉館となっているが、今は生前に書かれた楽譜、愛用していたピアノなどが展示される博物館となっていた。
外観だけでも見ようと立ち寄った二人は、近くのベンチへと腰を下ろした。
夜の川沿いは、まだ微かに冷気を含んだ風が吹き、カモミールや虞美人草の花をどこか淋しげに揺らす。
「私は、彼の後期や本当に初期の音楽が好きなのです」
「それは珍しい。ルーラでは、誰もが彼を国を代表する作曲家の一人として誇りに思っていますが、後期のような曲が国内で評価され出したのは晩年の話です」
「えぇ、ここでは今も昔も陽気で楽観的、そしてなによりも自由であることが求められますから。彼の悲哀に満ちた曲には、あまりにも水が合わないでしょう」
街灯が、淡く、ほのかな温かさを持って照らしだす川面からは、冷たい苔と湿った土――自然の力強さを感じさせる香りが漂う。
夜風が儚げな旋律を二人へと届け、視線を右へとやればロレンツォよりも、やや目上の男性がヴァイオリンを演奏しているのが見えた。
ルカトーニ《夜想曲》Op.5-2
主旋律はヴァイオリンが担い、それをピアノがやわらかに支える。
ヴァイオリンを主役とすることで、いっそうと甘美な哀愁が漂う初期の傑作だ。
彼から恋人とも他人とも、とれるほどの距離に一人の若々しく、いかにも純粋無垢といった笑顔の素朴な少女が居た。
川沿いに椅子を置いて腰を下ろし、時折り考え込む仕草を見せながら筆をキャンバスへと振るっていた。
世慣れした雰囲気を漂わす男性とは対照的な可憐さ。
しかし、そのなかに時折り垣間見える理知的で静謐な横顔は、通り過ぎてゆく人々の視線を自然と彼女と、その作品へと引き寄せる。
「確かに彼は未だに国外の方が評価が高い。ここで好まれるのは、中期の頃の軽快で陽気な曲です。ですが……このような光景を見ていると、彼の音楽は確かに、この地に根付いていると思いませんか?」
彼の問いにアンジェリカは言葉を発することなく、ただ、慈愛を感じさせる切なげな眼差しを二人の男女にむけていた。
「本来、すべての芸術とは作り手のものであり、受け手は作られたものを、ありのままに享受するべきです。芸術家とは最も傲慢で、タチの悪い人種なのですよ」
「中期のような曲は、ルカトーニらしくないと? 貴方は、あの賢人たちのようなことを仰るのですね」
冗談めかしたロレンツォの言葉を受けて彼女の表情には、わずかな陰りが見えた。
「ふふ、確かにそうかもしれません。……少し昔の話をしましょうか。当時の彼は恋をしていました。報われることのない恋を」
二十代の頃、彼――ジュゼッペ・ディ・ルカトーニは、一人の女性へと熱を上げていた。
だが、今以上に身分の壁が高かった当時、伯爵家の子息である彼が、中産階級出身で、家業も傾きかけていた女性と結ばれるのは茨の道だった。
さらに、彼女は難病を患っていたのだ。
なんとか彼女のことを支援したいとは思いながらも、婚約者でもない相手に家の金を費やすわけにもいかず、彼は自分の作った曲を売ることにする。
とはいえ、彼の作る悲哀の漂う楽曲は、国内ではまったく受け入れられなかった。
やがて彼が、当時から今に続くまで愛されている軽快で、聴いた瞬間に誰もが踊り出したくなるような曲を作るようになったのは、必然の成り行きだったのだろう。
「ですが……」
「えぇ、女性は彼の気持ちに応えませんでした。レンハイムを離れてヴォンに居る親戚を頼り、その数年後には亡くなったと言われています」
「なぜ、彼女はそのような選択をしたのでしょうか?」
「理由はいくつかあるでしょう。ですが、おそらくは――彼に自分の望まぬ曲を作らせていることが、彼女には何よりも辛かったのだと思います」
「彼女は彼を愛していたと思いますか?」
「えぇ、何よりも自分の気持ちをそのままに、音楽に書き出している彼を」
「あらゆる人の悲しみに心を向け、自分のもののように曲として仕上げる」
ベンチより立ち上がったロレンツォの差し出す手を、彼女は会釈で感謝の意を示し取った。
「はい、それこそがルカトーニの音楽ですわ」
◆◇◆◇
【フィオナ大通り】
この通りにはルカトーニが贔屓にしていた葉巻屋と、仕立て屋がある。
北部に位置するレンハイムのスーツの作りには、伝統的な特徴があった。
それは生地が厚く、肩に立体感を出し、胸部を強調して雄々しい印象を与えるというものだ。
しかし、伝統的なレンハイム式スーツを、ルカトーニは好まなかったという。
彼は今日に至るまでルーラ王国南部で主流となっている、生地が薄く身体に寄り添うような仕立てのスーツを愛用していた。
「ありがとう。良い夜を」
葉巻屋の扉が開き、店主に別れを告げたロレンツォが姿を現す。
彼は購入したばかりの葉巻に火を灯すと、すでに店仕舞を終えた仕立て屋の窓を覗くアンジェリカに微笑みかけた。
「お待たせしてしまいましたね。行きましょうか」
「お気になさらず」
やわらかく微笑み返す彼女を先導するように歩を進めてゆくと、諸外国の王族や政治家も宿泊することで知られる格式高いホテルと、レンハイム・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地である劇場【レンハイム楽友協会】が、並んで建っているのが見えてくる。
黄褐色の歴史を感じる外壁に、古代の神殿を想起させる柱が連なる劇場は、隣接するホテルとは、秘密の通路で結ばれている。
と、そのような噂を聞いたことがあるが、その実態を知る者はごくわずかとのことだ。
道すがら、彼らはロレンツォの友人に誕生日祝いを選ぶために宝石店へと立ち寄り、その後は音楽関連の書籍や楽譜を専門に扱う店にも足を運んだ。
街を散策しながら、ロレンツォはルカトーニ生家でのアンジェリカとの会話を思い返していた。
彼女が語ったのは、ルカトーニの曲作りの根幹にあるものであり、ロレンツォも限りなく近いものを彼の曲には感じている。
だが、本当にそれだけなのだろうか。
右手に握られた杖が、彼の落ち着かぬ心を映すように揺れ動く。
長年、熟成された葡萄酒を口に含んだ時のような、一言では言い表せない甘美で、心地良い煩わしさを彼は感じていた。
「Sig.naヴィヴァルディ、私も貴方と同じものを彼の曲からは感じています。ですが、別の見方もできないでしょうか?」
「どういうことでしょう?」
「言うなれば、これは〝点〟と〝線〟です。私達は彼の曲を線のように見ています。学生時代の初期の曲は、やや荒削りなところもありながら、確かに人々の心の繊細な動きを捉えていました。諸外国の耳の肥えた批評家たちに、商業主義と今では批判される前期とも中期とも言える時代の明るい曲。そして晩年まで変わることのなかった悲哀に満ちた曲」
「えぇ、私の解釈も同じです」
「ですが、音楽は語られる時には線で考えられがちですが、作られる時は点で考えられていると僕は思うのです。作り手の感情は喜怒哀楽に揺れ、あっちこっちへと飛び回る鳥のようなもの。葛藤しながら、決められた景色など存在しない着地点へと降り立つのです」
「大切なのは、結果ということでしょうか?」
「結果は、もちろん大切でしょう。ですが、その過程にある寄り道にこそ、人の生きた証は残るものです。今、それをお見せしましょう。転ばぬように気をつけて――失礼」
「あっ――」
ロレンツォに手を握られた彼女が、続く言葉を紡ぎ出す前に――彼はすでに駆け出していた。
風化の進んだ橋を小走りで渡りきり、その先に並ぶ、いくつかのまだ窓に明かりが灯る店を素通りしてゆくと、モダンな雰囲気のカフェが見えてくる。
だが、ちょうど店主と思われる高齢の黒人女性が、扉の看板を〝閉店中〟へと裏返したところだった。
「今日は、もう閉店時間でして……」
「失礼、Sig.ra.。ご迷惑をかけているのは、重々承知の上でお願いしたい。ピアノを何曲か弾いていただけないだろうか?」
「素敵なカップルのお願いだし聞いてあげたいけどね……」
女性は二人の顔を交互に見やり、腰に両手を添えながら嘆息をもらした。
その様子にロレンツォは、彼が重大な頼みごとをする際によく利用する、弱ったような微笑を口元に浮かべた。
「ふふ、Sig.ra.。どうか、誤解なさいませんように。もちろん、普段であれば私どももこのような無理なお願いは、決してしないでしょう。本来ならば、ここで貴方に素敵な夜を願い、お暇させていただくところです。ですが、今日は何の日ですかな?」
「そりゃエイプリルフールですよ」
店主の言葉を聞いたロレンツォは、満面の笑みを浮かべて看板を〝開店中〟へと戻した。
「エイプリルフールには、奇跡が起きるものです」
◆◇◆◇
真紅の壁に、街の風景や著名な音楽家の似顔絵が掛けられた店内で、二人は立ったままに酒を片手に談笑していた。
「曲は何を?」
「ルカトーニのピアノ協奏曲第八番を」
店主へのリクエストを終えると、ロレンツォはアンジェリカへと視線を戻した。
「この曲を聴いたことは?」
「はい、何度か。ですが、私の好みとは――」
彼女が続く言葉を発する前に、その唇にロレンツォの人差し指が添えられていた。
頬を染めあげ、抗議の視線を向ける彼女にロレンツォは悪戯っぽい笑みを浮かべて応える。
「今夜だけは、初めて耳にするように――自分の感じるままに、曲へと向き合ってください」
彼はウェイターからセレストブルーのカクテルを受け取ると、グラスの上で指を弾いてみせた。
すると――無数の白銀の光が宙で星のように瞬き、静かにグラスへと舞い落ちてゆく。
「さぁ、どうぞ。これを飲んだら、貴方は曲への記憶を失うでしょう」
「まぁ、知りませんでした。貴方は魔法使いだったのですね」
「いえ、とんでもない。僕は、ただの奇術師ですとも」
会話が、ひと段落した頃合いを見て、店主はゆっくりとピアノの演奏を始めた。
「踊りませんか?」
「喜んで」
カクテルを飲み干した彼女は、差し出されたロレンツォの手を取ると、背筋を伸ばして優雅に歩き出す。
気まぐれなようで規則的――不自由なようで、解放的な音色に身を委ね、互いのことを探り合うように二人は踊る。
彼はリードしたかと思えば、次の瞬間には自由なアンジェリカの踊りに魅せられていることに、思わず弧を描くように唇を上げた。
心地よい駆け引きを重ねるうち、二人の頬は激しく上気して、朱く染まってゆく。
やがて旋律は、徐々に浮き沈みの激しいものと変わっていった。
自由を謳歌する鳥は、その光を失ったかのように、先の見えぬ空を彷徨う。
「どうですか? この曲からは、彼の想いが、言葉が聞こえてはきませんか?」
努めて冷静に問いかけるロレンツォの瞳には、これまでにない熱が宿っている。
彼の双眸を見上げるアンジェリカの瞳からは、薄暗い照明に照らされて輝くものがひとすじ、こぼれ落ちてゆく。
「今が幸せな人は、もっと幸せに。そう感じることのできないような境遇にある人にも、ほんの少しでも安らげるときを……。でも、私たちの人生には、こんなにも、ままならないことが多い」
ロレンツォは、彼女に何も言葉を返さなかった。
これは二人――彼女と、ジュゼッペ・ディ・ルカトーニの対話だ。
そして旋律は再び、明るく、自由な響きへと引き戻されてゆく。
アンジェリカの目が、驚きの表情とともに見開かれた。
「そう、貴方は苦悩の先に希望を見出そうとしたのね。あらゆる他者の絶望に共感して、自分のものとしてきた貴方が……」
二人の舞踏は、曲の限り続いてゆく。
ロレンツォの左手に掴まり、円を描いたアンジェリカの目前に、彼は帽子を差し出す。
次の瞬間、間髪を入れずに――鳩と蝶が空を舞い、二人の頭上へと光の雨を降らせた。
「貴方、やっぱり魔法使いだわ」
「奇術は、時に魔法を超えるものですよ」
◆◇◆◇
二人が最後に訪れたのは、丘の上にあるルカトーニの墓だ。
吹き抜ける夜風が、木の葉を、そよそよと揺らす。
青白い月の薄明かりが、並び立つ無数の墓碑を淡く照らし出していた。
「一つ、教えて下さい。なぜ、貴方は音楽ではなく奇術の道を選ばれたのでしょう?」
「おもしろくもない話ですよ。音楽一家に生まれ、それなりの才はあったと自負していますが、周囲が僕に求めてたのは〝魔法〟だったのです」
「魔法……ですか?」
「えぇ、彼らは僕が書いた楽譜にはすべて魔法が宿ると、本気で信じていたのです。その時の彼らの目には、僕の父や祖父が映っていたのでしょうね」
アンジェリカは口を挟むことなく、彼の隣で星々が瞬く夜空を静かに見上げていた。
「そんな折、レンハイムで世界各国から著名な奇術師達を集めた祭りが開かれましてね。本当に驚きましたよ、彼らの扱う奇術は、魔法とは違い、〝種〟がある――つまりは〝嘘〟です。しかし、それは人を幸せにするための優しい嘘でした」
「人を、幸せにする嘘ですか……」
「はい、それは魔法よりも、よほど僕には信頼できるものでした。この道ならば、自分のままに人を幸せにできるとね」
「それも貴方の仰っていた点と線のひとつですね。光を失った鳥のように道に迷い、寄り道をたくさんしても……気がつけば、その翼で再び自由に蒼穹を飛んでいる」
アンジェリカは腕を背で組みながら、ゆっくりと墓地を歩いてゆくと、一つの墓碑の前で足を止めた。
そこにはルカトーニが眠っている。
彼女は花を供えると、愛おしむようにその墓碑を見つめた。
「彼は今では、国内外から愛される音楽家になりました。ですが、名誉が人を幸せにするわけではありません。彼の人生が、果たして満ち足りたものであったのか――それを知る術は残念ながら、もう永遠にありません」
「僕は、彼は幸せだったと信じています。生涯に渡って、これだけ愛せる女性と巡り逢えたのですから。それはきっと――彼にとっては、かけがえのない宝物のような記憶だったでしょう」
ロレンツォは胸元から、紺色の小さな箱を取り出し、彼女へと差し出した。
箱の中には、ダイヤの両端に紫水晶があしらわれた指輪が収められていた。
「どうして……」
瞳が見開かれ、彼女の顔を明確な同様が駆け抜ける。
口元を両手で押さえ、彼女はその場に崩れ落ちた。
瞳からは抑えきれず、涙が一滴、また一滴と、星のような輝きを放ちながら地面へと落ちてゆく。
「僕は貴方に一つ、嘘をつきました。僕の本当の名は――ロレンツォ・ディ・ルカトーニ。えぇ、ジュゼッペ・ディ・ルカトーニの〝孫〟です」
ロレンツォはジレの内側から懐中時計を取り出し、その蓋を開いた。
そこには彼と瓜二つの若き紳士と美しい女性――アンジェリカの姿があった。
「貴方が……そう、これは彼が私にプロポーズをしてくれた指輪だわ」
「祖父はこの時計と指輪を、とても大切にしていました。僕がまだ幼い頃に彼は亡くなりましたが、この指輪をたまに眺めていた時の彼の横顔は、いつも幸せそうなものでしたよ。どんな形にせよ、彼の人生には、貴方との一瞬が必要だったのです」
その言葉が、彼女への慈悲であり、赦しだった――。
地面に崩れ落ちる彼女は、指輪を愛おしそうに両手で包み込み、空へと感謝と愛の言葉を叫んだ。
◆◇◆◇
「Sig.ルカトーニ、本日は素敵な夜をありがとう」
「僕のことは、ロロと呼んでくれませんか」
「ふふ、わかったわ、ロロ。貴方もアンジェと呼んでくれると嬉しいわ。もうすぐ、この魔法と奇跡の時間も終わりね。貴方に出逢えて、本当に良かった」
「僕もだ。最後に、こんな特別な夜ということを言い訳にして、ひとつだけ――僕の罪を許してほしい」
「えっ――」
アンジェリカは、それ以上の言葉を紡ぐことはできなかった。
彼女の唇をロレンツォが、自分のそれにより塞いでいたからだ。
「……さっきの嘘を許した分で、貴方への温情は使い果たしたのだけれど」
「手厳しいね。次に会った時に、また文句は聞くさ」
やわらかな風が二人の間を吹き抜け、街の時計塔から零時を告げる鐘が鳴らす。
鐘が鳴り終わり、静寂が訪れたとき――アンジェリカの姿は、既にそこには無かった。
◆◇◆◇
ロレンツォは、もうひとつの嘘をついていた。
胸元から取り出した紺色の箱の中にはさきほど、彼女に渡したのと同じ意匠の指輪が収められていた。
だが、それは――もっと深い年季を感じさせるものだった。
ロレンツォが彼女に渡したのは、途中で立ち寄った宝石店で購入した、同じメーカーの現行のものだった。
人気のあるデザインのために、今も販売されていたのは幸運だった。
ロレンツォはジレから、今度は懐中時計を取り出すと、そっと開いた。
「お爺様――貴方への義理は、これで果たしましたよ。今度は僕が、彼女を口説いても良いですよね?」
アンジェリカは、その写真を初めて見た瞬間から、ロレンツォにとっても、初恋で今も変わらずに想い続けている女性なのだ。
この〝奇術〟と呼ぶのもくだらない、嫉妬心からの小さな〝嘘〟に気がついた時、来年のPrimod'Aprileに不機嫌そうな表情を浮かべた彼女が、再び自分の前に現れてくれるかもしれない――。