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唯一の春  作者: 兎田
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06資質<訪れた春>

ここに来て何日が経ったのだろう。ろくに食事をしていないので流石に意識が朦朧としてくる。

椅子に縛り付けられた唯人は天を仰ぐ。


少し離れた場所には唯人を誘拐した若い男たちが何やら下品な会話をしている。


春麗と屋台祭りに行った日、大勢の男たちに囲まれて薬品を嗅がされた上に拉致されたのだ。いつもの唯人であれば人数だけの相手に遅れを取ることはないのだが、つい春麗のために買った肉巻きに気を取られた隙に捕まったのだ。

自分としても本当に情けないし不甲斐ない。春麗もきっと心配していることだろう。


主犯は母親で、この部屋も母親のものだ。…母親とは思いたくない程のクズ女で父親と離婚後も色々な場所で悪さをしていたらしい。そのツケが回って複数の組織から疎まれた母親は首が回らなくなって、息子のところに来たようだ。


最初は唯人や父親に援助を乞うたが相手にされず、今は唯人をどこか他の組織に売り渡そうと画策中らしい。

唯人を疎んでいる人間は組織内外にどこにでもいるので、そこから何かしらの取引をしたいのだろう。

フウカは表向きはここにいる半グレ集団に唯人を引き渡すと言ってこの男たちの力を借りている。勢力を伸ばしたい半グレグループは唯人の首を獲ることで箔をつけたいのでフウカの指示にしたがっているようだ。フウカが本当にこの集団との約束を守るかは定かではないが…。


まだ神亀会を含めてどこに唯人が渡されるのかはわからないので、唯人は危害を加えられていない。唯人の座る椅子の周りには血が飛び散っているが、それは唯人が椅子に拘束される際に暴れて半グレの男たちに攻撃を加えたときのものだ。


ずっと椅子に座っているのでいい加減体勢を変えないと辛い。このままではどこかに引き渡される前にエコノミークラス症候群で死んでしまいそうだ。

実は唯人にとってここから逃げ出すのは造作でもない。しばらくここで周りを観察していたが、攻撃を与えるのではなく逃げるくらいであれば問題なく済みそうだ。


しかし、以前父親に呼び出された際に、母親の動きが怪しいのでこういった状況になるのかもしれないとは言われていた。

その場合は捕まったままでいろと指示を受けていたのだ。どうやら神亀会の中で裏切り者が複数いるらしく、これを機に組織の膿を出し切りたいらしい。父親も唯人がすぐに殺されることがないと踏んでそう言ったのだろうが、なんとも酷な話だ。春麗が知ると父親相手でも激怒するだろう。


まだ危害を加えずに生かされているということは、父親が母親に適当な話をして交渉を引き延ばしているのだろう。内通者を見つけ出すのにこんなにも時間がかかるとは予想外だ。

神亀会の絶対的ボスである父親が家を空ければ内通者が何かしらのアクションを起こしてくると思ってのことだったが、思ったよりも内通者の数が多いのかもしれない。


気絶したふりをしてそんなことを考えていると、急に若い男たちが慌ただしく動き出し武器を持ち始める。どうやら母親に呼ばれたらしく、その場にいた全員が出て行ってしまった。


下の店にカチコミでもあったのだろうか。神亀会が動いたのか?それとも母親が恨みを買っている他の組織か…?

この機に逃げるか…いや、まだ状況がわからないから迂闊に動くべきではない。ただこのまま座った体勢では身体にも悪いので、今のうちに少し体を動かして運動でもするか。


そう考えた唯人が動こうとしたとき、入口ドアの付近で何か気配を感じた。

そう言えばカチコミの前に買い出しに出た奴が一人いた。そいつが戻ってきたのかもしれない。

唯人は再び目を閉じ身体を脱力させると気絶するふりを再開した。


タッタッタ…

歩幅の小さな足音がする。


「唯人、大丈夫!?」

聞こえたのは春麗の声だった。


「春ちゃん…?」

唯人が目を開けると、そこには心配そうに駆け寄ってくる春麗の姿があった。服装はいつも通りだが、心なしかメイクが濃く髪型もいつもと違い華やかだ。


クソ親父…春麗まで巻き込みやがったな!?

状況を理解した唯人は怒りで目をしかめる。格好から春麗を母親のクラブに潜入させたことを察したようだ。



「やっぱり痛いよね。今すぐ縄を解いてあげるから!」

唯人のしかめた表情を見て春麗は唯人が痛みでそのような表情をしたと思ったようだ。春麗はポケットから携帯用ミニナイフを取り出すと唯人の縄を切ろうとする。


実は唯人は自分で縄を解く術があるのだが、ここはせっかく助けにきてくれた春麗に縄を切ってもらったほうが良いだろう。




「ん?…この状況は何だ?」

二人は再会で気が緩んだのか、他の人の気配にはこの声で気付いた。


春麗はすぐに声がした後ろを振り向く。

焦っていたとはいえ気配を感じなかった…‼


入口にはコンビニの袋を持ったスキンヘッドの大男がいる。

先程買い出しに行った男が戻ってきたようだ。


春麗は咄嗟に唯人の膝の上にナイフを置くと、男の気を引くために即座にそちらへと向かう。

「他の奴らがいねぇのも変だけど、お前が何でここにいるんだ?」

小さな春麗を見下ろす大男。


この男に春麗は見覚えがある。一度フウカに何か話をするために店にやって来たことがある。その際キャストの女性たちをニヤニヤ見て来て気分が悪かった。


「に、二階に来てみたらドアが開いてて…男の人が縛られてたから……」

嘘が苦手は春麗が必死に答える。

今はなんとしても唯人渡したナイフで縄を解く時間を稼がなければ。


「お前、店のキャストか。せっかく来たんだから休んで行けよ。」

男はにやりと笑うと春麗の腕を引きソファの方に連れて行く。


「やだっ…何!?」

春麗も反撃をしたが、唯人のことがあるので時間を稼ぐしかない。


「ちょっと俺と楽しもうぜ。」

男は下心のある笑みを浮かべると春麗をソファへと投げつけた。


「うっ…」

ソファに投げ出される春麗。

そして春麗の服に手を伸ばす。しかし、春麗もそのまま男の成すがままにならず、服を掴む男の手首に両手でしがみつき抵抗する。


「なんだ…!?」

予想以上に力がある春麗に驚いたのも束の間、春麗はすぐに男のみぞおちに蹴りを入れた。


ドカッ

ビリィッ


「ぐふっ…」

服を掴んだまま男が吹き飛ばされたので春麗の服が破け胸元が露わになる。


春麗はその隙を見逃さず、すぐに身体を起こすとよろける男の鼻に渾身のパンチをお見舞いした。

バキィッ


男はあまりの衝撃に鼻かた血を流しのけ反って床に倒れた。

ガァンッ

「うっ…」

男は頭を強打したようで気絶直前だ。


「春ちゃん‼」

そこに縄を解いた唯人がやってくる。

唯人は長い間同じ体勢で座らされていたのでふらふらとしている。

唯人が見た春麗の姿は胸がはだけ下着が見え、返り血を少し浴びていた。髪も乱れており、殴った拳は痛々しく赤く腫れている。

無理な体勢からの攻撃だったので、思ったように力を出せず自分の手まで痛めてしまったようだ。


「唯人、縄解けたんだね!」

春麗は自分のことなど気にせず唯人の元に駆け寄ると、唯人は倒れるように春麗を抱きしめた。ずっと座っていたのでまだ脚の感覚がおかしいらしい。唯人は春麗の姿を見て怒りと恐怖で震えていた。

春ちゃんをこんな格好にするなんて…‼


やっぱり捕まって凄く怖かったんだ…。

春麗は唯人が捕まった恐怖で震えていると勘違いする。


春麗を抱きしめながら背中越しに男を注視していると、殴られた男がフラフラと立ち上がる姿が見える。

唯人は咄嗟に春麗の耳を覆うように腕を回し抱きしめる力を強める。


シュッ

「ぐはっ…」

唯人が投げたミニナイフが男の右胸上部に刺さる。


この男絶対に許さん…‼


「ゆ、唯人!?苦しいんだけど!?」

何が起こったかわからない春麗は唯人の胸でじたばたと暴れる。


「ごめん、急に眩暈がして…早くここを離れよう。肩貸してくれる?」

適当に嘘をつく唯人は春麗を抱く力を緩めると春麗の肩に腕を回した。


「早く治療しないと…っでも、まだあの男が…」

「大丈夫。さっきの春ちゃんの顔面パンチで気を失ったみたいだ。」

唯人は春麗が男を見ないように半ば強引に歩き出した。

実際男は胸に深い傷を負い満身創痍で動けそうにない。




「姐さん!若は…っ!」

春麗と唯人が出入口に向かって歩いているとき、山田がやってきた。


「大丈夫っすか!?」

「見るな。お前は後ろの男を頼む。」

唯人は低い声と鋭い視線で山田を睨む。春麗のこんな姿を誰にも見せるわけにはいかない。


威圧感で山田は身を固めると倒れる男を見た。

「こいつが姐さんを…」

すっかり春麗信者になった山田は春麗をこんな姿にした男に怒り心頭だ。固く握る拳が震えている。


春麗に支えられた唯人が山田の隣を通り過ぎるとき、小さな声で呟く。

「徹底的に処分しろ。」

その声からは怒りがにじみ出ていた。

山田はその言葉に頷くと、男の元へと向かったのであった。

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